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妻恋い(#シロクマ文芸部)

紅葉鳥もみじどりよ!」
 恵映子けえこが声を落としてささやく。
 残暑の影響か、紅葉こうよう五分ごぶといったところだった。山道は周囲の木々で陰っているとはいえ、十月も末だというのに暑い。木の上に目を凝らしながら首筋の汗をぬぐう。樹幹をさまざまな鳥がさえずり飛ぶ。種を特定することなど、亮二にはできない。
「どれ? どの鳥?」
「ほら、あそこ」
 恵映子は声をひそめて雑木林の奥を指さす。
 そこだけ美しく橙と紅に装いをかえたイロハモミジの下に、立派な角をもつ鹿が一頭佇んでいた。おもむろに顎をあげて高く、けーんと鳴く。
「うん?……鹿じゃないか」
 怪訝な顔で振り返ると、恵映子が口角をあげて目だけで笑い、しーっと口先に指を立てる。
 けーん、けーん。……けーん、けーん。
 鹿は首の向きを四方に変えながら、幾度か甲高い声を響かせる。その声は辺りの木の葉をかすかにゆらし、森閑とした木立に霧散していく。ひとしきり鳴くと鹿は、がささっと落ち葉を踏みしめ山奥へと駆けて行った。
「あれが、紅葉鳥」
「いや、鳥じゃなくて、鹿だろ」
 恵映子が頬をきゅっとあげ、ふふ、と得意げに鼻をふくらませる。
「奥山にもみじ踏みわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋はかなしき」
「百人一首か?」
牡鹿おじかは秋になると妻を求めて鳴く。その声がもの哀しく聞こえるから、鹿のことを紅葉鳥と呼ぶんだって。ね、すてきでしょ」
「はあ」と気のない返事をする。
「こういう言葉をると、日本人で良かったなあと思う」
「ふーん、そんなもんかねえ」
「もう、鹿のほうがよほど妻思いよね」
 恵映子が頬をふくらませる。その肩に紅葉が舞い落ちた。

 二十五年ぶりにあの日と同じ山道をのぼる。
「十一月なのに暑いな」
 汗をぬぐいながら隣を振り返る。<はい、お茶>と差しだされる水筒を受け取ろうと手を伸ばし、そこに呆れるような笑顔がないことに気づく。
 さああああああ、と秋風が梢をゆらし首筋をなでる。
 ひと月前に恵映子を荼毘に付してから、そんなことが増えた。
 
 雑事に忙殺されれば忘れられるというのは、嘘だ。
 歯を磨いていると、<タオル、ここに置いておくわね>と声がして振り返る。夕飯を食べていると、<もう、新聞を読みながら食べないで>との文句に、うるさいなと顔をあげて、誰もいないことに気づく。
 耳が記憶しているのだろうか。体に染みついた日常の動作をするたびに、妻の不在を思い知る。生きていたときには気にも懸けなかったことに気づかされるのだ。
 なぜ、もっと耳を傾けなかったのだろう。
 「ふん」とか「ああ」とか、ろくに返事もしなかった。

 あの鹿に出遭ったのは、どの辺りだったか。
<ちゃんと水分を摂らなきゃだめよ>
 まただ。耳の奥で叱られる。
「ああ、そうだね」
 亮二はうなずき、リュックの横ポケットに差した水筒をとる。
 もう少し先だったか、と山道を進む。
 二人で登ったのは、新婚まもないころだった。またいつでも来ればいい、と思っていた。だが、接待ゴルフだ、休日出勤だとの大義名分を理由にして、歳月だけが降り積もり二人で訪れる機会を失った。
 指の間からこぼれ落ちた時間を取り返すすべなどないのだ。

 がささっと音がした。イロハモミジの紅葉した葉陰に牡鹿がいた。
<ほら、紅葉鳥よ>
「牡鹿のことだね」
<覚えていたの?>
「ああ、ぜんぶ覚えているよ」
 風が葉擦れを鳴らす。ふふ、と恵映子の笑い声が聞こえた気がした。
 けーん、けーん。
 鹿はひと声鳴くと、林の奥に駆け去った。
 亮二は雑木林に踏み入る。夢中だった。まろぶように下草を掻き分けて進む。胸ぐらいの高さの崖へ、傍らの木の幹を握って一気に体を引き上げる。振動で葉が幾枚か亮二の肩に散る。
 イロハモミジの傍らには鹿の足跡があった。
 亮二は頭上を見上げる。色づきはじめた紅葉がさまざまな色を重ねる。
<きれいねえ>
 恵映子のささやくような声が耳管の奥でため息をもらす。
「けえぇぇぇえこぉぉぉお」
 けーん、けーーん、けーーーん。
 妻恋いの一声が、波となって色づきはじめた紅葉を幾度もゆらした。

<了>

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今週も滑り込みです。
よろしくお願い申し上げます。

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