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【連載小説】「北風のリュート」第9話

前話はこちら。

第9話:奏でるもの(5)
 
ふうっと一つ大きく深呼吸し、レイは覚悟を決める。たった一人でもわかってくれる人がいる、そのことがレイを勇気づける。
「あの……風が吹いているのはわかります?」
 レイはテラスに目を向ける。つられて迅も視線を追う。
「いま、立原さんの首筋を風が通りましたよね」
「ああ、はい」
「どうして、わかったと思います?」
 えっ、そりゃ……と言いかけて、迅は首に手をあて言葉を飲みこむ。
「天井でファンが回っているから、風は一方向じゃない。わたしに吹く風と、立原さんの首筋をなでた風は向きがちがう」
 天井に据え付けられた大きな4枚羽根のファンが食堂の空気をかき混ぜている。
「立原さんの顎の下を透明の魚が泳いでいきました。右から左上へと。尾びれが左頬も撫でていった」
 迅は左頬にさっと手をやる。風の余韻はある……が。透明の魚だって?
 この美少女はにこりともせずに何を言っているのか。
「子どもの頃からわたしは空を泳ぐ魚が見えていました。『空に魚がいる』光景は、わたしの日常です。親も誰もわかってくれないから、今ではこの魚たちが」と空中に手を伸ばし、
「わたしの唯一の友だちです」と微笑む。
「それが風の姿だと、さっきわかったところです。天馬さんのおかげで」
 迅は太い眉をつりあげ、レイと流斗を交互に見る。
「立原さんはイーグルドライバーだから、目はいいよね」
 流斗がごく自然にため口で確認する。
「動体視力もいいほうです」
「やっぱりかあ。だから雲の異変にも気づけた。他の隊員は気づかなかったのに」
 はあ、まあ、と迅はあいまいに返す。
「見えないものは存在していないと思う?」試すような目で問う。
「そりゃまあ、ふつうは」
「うん、そう考える人が多いよね。だからタッチーが見た赤いものは目の錯覚と処理された。けど、納得いかないんだろ、ちがう?」
 タッチーって誰だ、と突っ込む気も起きない。初対面でしかも半ば任務の延長線上の面会で渾名呼びされるなど迅の常識では前代未聞だ。なのに、心のもやもやを言い当てる。なんなんだ、この人は。
「空間には何もないように見えるけど、エアロゾルっていう雲の核になる粒子が漂っている。見えないけどいるんだよ、雲の種が。ぼくらの目には見えていないものがたくさんある」
 それはわかる、が……。
「透明な魚の存在を信じるか、信じないかは、タッチーしだい。だとしても、レイちゃんに見えてる世界を否定しないでほしいんだ。見え方の違いなんだから」
 レイはこぼれそうになるものを堪えようと慌てて天井を見上げる。まにあわず水滴が一つ、こめかみをつたう。
「気象研究者としては、『赤いもの』の正体や発現した理由が気になる。そこに空の魚が関係しているなら知りたい」
 流斗はレイの緊張をほぐすように、にやりとする。
「魚たちは……口をパクパクさせて、何か食べてるみたいです」
「それは赤色なの?」
「いえ、透明で見えないくらい小さくて。だから鯉や金魚の口パクと同じで、息をしてるだけと思ってました」
 風がレイの髪をゆらす。その行方をレイは追う。
「今年に入ってからです。赤いものを食べてるのを見かけたのは」
 記憶をたどるように小首をかしげる。
「それまでは見たことがなかった?」
「たぶん。赤いものをぱくって食べるのを見て、口パクはえさを食べる行為だったのかと気づいたのが、つい最近のことだから」
 レイは前髪をはらう。切れ長の瞳が迅をとらえる。
「立原さんが見たのも、透明な魚たちのえさだったんじゃないでしょうか」
 ああ、それなら、と流斗がうなずく。
「すぐに消えたのも説明がつくね。魚に食べられちゃったからだ」
「ちょっと待ってください。仮にそうだとして、上にどう報告したら?」
 迅がごくりと喉を鳴らす。
「現段階では報告の必要はないね。この仮説が正しいとすれば、国防的な問題は想定しにくい。ステルスドローンの可能性が消えたわけじゃないけど。ステルスってレーザーに反応しないだけで目視では捕らえることができるんでしょ、透明マントじゃないんだから。一瞬でもタッチーの目が捕らえたのに、次の瞬間には精鋭のイーグルドライバー4人が目を皿にして探しても見つからなかった。消えるドローンはまだ開発されてないよね」
 流斗は缶コーヒーでひと息つく。
「半年くらい前から鏡原周辺の気象がおかしいと気になっていた。だからタッチーの投稿に飛びついた。何か鏡原上空で異変が起こっているのかと」
 気象はパイロットにとっても重要事項だ。迅は半年前の記憶をさらう。
「昨年秋から年末にかけて、台風の進路でもないのに風速20メートル級の強風や暴風、竜巻が頻発している。しかも鏡原限定で。気圧や前線の影響では説明がつかない状況も多い」
 確かに演習の中止が通達される日が多かった。
「そういえば」とレイも記憶をひねりだす。
「秋頃急に空の魚が増えました。気持ち悪いくらい増えて狂ったように泳いで。傘が飛ぶほどの風が吹いてた。ひょっとして空の魚たちが……原因?」
 流斗が、がたっと椅子を鳴らす。
「今も空の魚は増えてる?」
 レイは首を振る。
「お正月くらいから減ったと思う」
「赤いものを食べるのを初めて見たのはいつ?」
「2月3日」日付の即答に流斗が目を剥く。
「正確な日を覚えてるんだ」
「龍源神社で節分の豆まきがあったの。豆がまかれる空を見上げてたら、透明な魚が赤い豆をぱくって食べた。へえ赤い豆なんかあったんだ、とその時は思ったけど。一週間後に空の魚が別の赤いものを食べるのを目にして、あれは豆じゃなかったのかと」
 ふん、ふんと流斗はうなずく。
「3月に入ってからの魚の動きと数はどう?」
「減ってる気はする。だんだん動きも鈍くなってるような」
「今年になって鏡原市では降雪もないし、暴風どころか強風も観測されていない。本来、春の嵐といって春先は荒れる日が多くなるはずなのに、強風の記録がぱたりと途絶えている。空の魚が減って赤いものを食べはじめた時期と奇妙なくらい気象が重なってる」
 流斗の声がしだいに熱を帯びる。
「風を起こしているのが空の魚だとして、数が減ると強風も減る相関関係はわかりますが……赤いものを食べる行為との関係は?」
 迅が疑問を分析する。
「それは、わからない。これから検証しないと。なにしろ空を泳ぐ魚の存在や捕食行為を知ってからまだ1時間も経ってない。でも収穫はあった。始発でつくばを出て来たかいがあったよ。まあ、ダメもとだったし、航空祭を楽しんで帰るつもりだったけどね」


10話に続く→


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