【連載小説】「北風のリュート」第8話
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第8話:奏でるもの(4)
「デブリが長引いて、お待たせしました」
深緑のつなぎ姿の長身の男性が走って来た。首の汗をぬぐい帽子を取って頭を下げる。
デブリってフライト後の反省会みたいなもんだよ、と流斗がレイに耳打ちする。レイは基地の町育ちだから、そんなことは知っているけど黙っておく。どうやらこの自衛隊員はオープニングフライトでF15イーグルの展示飛行を披露していたらしい。
「ここ、ふだんは食堂ですが、今日は休憩スペースに開放してます。基地のはずれなんであまり人も来ません」
適当に座ってくださいと言いおいて、男は自販機コーナーにすたすたと向かい、ガコン、ガコン、ガコンと缶コーヒーを3本手にして戻ってきた。
「航空自衛隊鏡原基地所属三等空尉、立原迅です」
「気象研究所研究官の天馬流斗です。憧れのイーグルドライバーに会えて震えています」
男たちが暑苦しい握手と名刺を交換している後ろで、レイはどうして付いてきちゃったんだろうと、うっかりミスでまぎれこんだ異物みたいな居心地の悪さにそわそわする。流斗のウインドブレーカーの袖をそっと引っ張り、「あの……あたし帰ります」と囁いたのが聞こえたのだろう。
「彼女さんですか?」と立原が訊く。
気象研究官の背に隠れるようにして女性が立っていた。長い前髪で目もとが見えないが、鼻筋のとおった美人だ。ブルージーンズに裾がふわりと広がった白のブラウス。黒い楽器ケースを肩にかけている。
「いやいや、ちがいますよ」流斗が滑稽なほど大きく手を振る。
「さっき竜野川の堤で会ったばかりで……」
はっ、と迅はめんくらう。
「こちらは……あ、まだ名前を訊いてなかったっけ」とレイを振り返る。
「小羽田レイ、北垣高3年です」
「高校生なの?」大学生かと思ってたよ、まのびした声が宙を浮遊する。
知り合ったばかりの女子高生を連れて来るなんて、どんな神経をしてるんだ。迅は心のうちで毒づく。
雲の異変について詳しい話を聞きたいとコンタクトがあったときは、気象の専門家からのアプローチに沈みかけていた自信が浮上した。鏡原基地にも航空気象群所属の気象隊はいる。気象予報官の佐藤一尉には、一瞬で消えたなら光の乱反射か目の錯覚だろうと軽くいなされていた。
この飄々とした人物に、扱いによっては機密事項に分類されるかもしれないことを話してもいいのだろうか。急に不安になる。
「立原さんが見たものについて、彼女なら思い当たることがあるかもしれないと思って、ぼくが誘いました。まずかったですか」
不審が顔に出ていたかと迅はぎくりとする。
と同時に、迅が「見た」ことをまるで疑っていないことにも驚く。
信を置くべきか、警戒すべきか。鋭いのか、抜けているのか。
迅のとまどいに頓着することなく流斗は、遠慮なくいただきますと缶コーヒーのプルタブを引きながら
「まず、目撃状況を話してもらえますか?」と本題を切り出した。
演習の内容や機密事項は話せませんと断りをいれ、あの日「見た」かもしれないものについて迅は語った。高度1500メートルぐらいの層積雲で、一瞬だけ薄く赤色に光るものを見たがすぐに消えたこと。三日後にもよく似た現象を目撃したが、またすぐに消えたこと。テニスボールぐらいの団子状だったこと。二度とも演習空域から基地に戻る途中の鏡原上空であったことも伝えた。
専門家の意見を聞きたかっただけだから、女子高生の存在は考えないことにしよう――と気象研究官に向かって話しながらも、はす向かいでぼんやりと天井を見つめている美しい横顔に目がいってしまう。コクピットでなら視線は迷わないのにと、迅は自身に舌打ちをする。
食堂の天井に据えられたファンの羽根を押し、透明の魚が数匹くるくるとまわっている。レイは彼らの姿を目で追いながら、ぴしっと糊のきいた折り目正しい話し方をする人だなと迅の話を片耳で聞いていた。
(雲の中にいてすぐに消えてしまう赤いもの……)
あっ、とレイが口を押えたのを流斗は見逃さなかった。
「ピンとくるものがあった?」
テラス側の窓は全開になっていて、ゆるい風が流れこんでいる。
(透明な魚たちのことを天馬さんは信じてくれたけど、この人は? そもそも赤いものの正体なんて、わたしには関係ないし)
黙っていようと結論しかけたら、
「レイちゃんはすぐに撤収しようとする。何か気づいたんでしょ」
流斗にすっかり読まれている。レイには対人スキルがなさすぎて、こんなとき途方にくれる。前髪のすき間から迅をうかがう。
「怖いですか?」
えっ、と顎をあげる。
「俺、無愛想だし眉毛濃いし、よく顔が怖いっていわれるんで」
すみません、と五分刈りの頭を下げる。
あ、いえ、とレイのほうが慌てる。
ぶはっ。
また変な破裂音を立て吹き出しかけた笑いを、流斗が腕で押さえている。
「や、ごめん。初デートの二人みたいで」
レイはキッと睨む。
ごめん、ごめんと言いながら、「大丈夫だよ」とレイの瞳に言葉を返す。大丈夫ともう一度囁き「いるんでしょ、ここにも」と、流斗はテラスから天井のファンへと指をすべらせる。その指先は透明な魚たちの軌跡をなぞっていた。
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