【連載小説】「北風のリュート」第19話
第19話:糸口(6)
【5月1日 岡崎/鏡原】
朝から岡崎の祖母宅に出かけていた娘のレイは、夕方に帰宅するなり自室に駆け込んだ。
美沙は吹き抜けのリビングから二階をうかがう。ボーダーコリーのボッシュが足もとにすり寄ってきた。
「おまえなら、入れてくれるわね。レイちゃんをお願いね」
老犬がゆっくりと階段をあがる。扉前でひと声吠えると、ガチャリと音がして光が二階の廊下に直線を引き、犬とともに消えた。
「ちょっとへこんでいるだけですよ」
振り向くと、三日前から逗留している天馬流斗が立っていた。レイが岡崎に行くのに、自衛官の立原と共について行ってくれていた。
「お、これ赤カブの漬物ですか」と手で摘まみ、ぽりぽりと小気味いい音をたてる。
「手は洗ったんですか」と美沙は眉を寄せる。
まだ二泊しかしていないのに、昔からの知り合いか親戚のようになじんでいて吹き出しそうになる。
「岡崎で何があったんです?」エプロンを外しながら訊く。
「あったというより、何もなかった……ですかね」
赤カブを齧りながら流斗は鼻の頭を掻いていた。
レイは『龍秘伝』のありかを尋ねるために、岡崎にある祖母宅を訪ねた。
迅がモスグリーンの四駆を運転してくれ、レイが助手席、流斗が後部席に陣取った。龍ケ洞トンネルを抜けて鏡原を出ると青空が広がり、山あいを走る高速道は新緑が目に眩しい。
「うわあ、空が青い」
久しぶりに目にする快晴。助手席の窓を全開にする。すいーっと魚が入ってきて、後部席の窓から出ていく。鏡原を出てわかった。いかに鏡原がおかしいか。
ピヤピヤ、ピ――ッツ。
ヒヨドリだろうか。甲高い鳴き声がする。
ピチチチ。チュンチュン。ピピピ。
聴覚に意識を集中させると、やかましいくらい様々な鳥の声が聞こえる。
ボッシュと散歩していると、夕刻、塒に帰る鳥のけたたましい囀りがしていた、が……最近、耳にしなくなっている?
「鳥、鳥の声」
レイは助手席から後部座席を振り返る。
「うん、ああ、いい声で鳴いてるね」
居眠りしていたのだろう、流斗は眼鏡の奥の目をしばたかせる。
「違うの、鳥の声がしないの」
「やかましいくらい鳴いてるじゃん。な、タッチー」
流斗が運転席のヘッドレストを持って体を起こす。
「そうじゃなくて。鏡原で。鳥の声をあまり聞かなくなった」
「そういえば」と迅もハンドルを握りながら考え込む。
「鳥が鏡原から姿を消した?」流斗ががばっと起き上がる。
「地震の前と同じか。動物は危機を察知して逃げ出す」
急がないといけないかも。流斗のつぶやきが、レイの耳に残った。
祖母の綾子は久しぶりの孫の来訪を喜んだ。
寿司桶や天婦羅、刺身に唐揚げなどが座卓をにぎやかにしていた。
「まあ、まああ」
レイの後ろに控える二人の男に目を瞠り、「レイちゃんったら、立派なナイトを二人も連れて来て」と白髪も上品な顔をほころばせる。
無口なレイとは対照的に祖母は社交的でおしゃべりだ。同伴した流斗と迅への好奇心を抑えられないようすで、ひっきりなしに質問を浴びせ、二人が答える半ばで話をかぶせる。早口ではないのだが、蜜を求めて舞う蝶のごとく気ままに話題を転じるものだから、口を挟むタイミングが難しい。まだ小学生の従弟の直人と賢人は、空自パイロットと気象研究官にまとわりついて離れず、あちこちで話の輪ができあがった。
レイは風琴を入れた桐箱を脇に置いたまま、一人、取り残されていた。
空の魚が縁側から座敷を泳ぎ抜ける。庭のハナミズキが満開の枝を揺らしている。
祖母から『龍秘伝』のことを聞き出さなければと思うと、緊張で鳩尾が縮む。
「おばあちゃん、あの」「この楽器の」「龍秘伝を知ら……」
何度も祖母に話しかけようとするが、レイの声量では周囲のにぎやかさに掻き消される。迅がちらちらとレイを気に懸けているのには気づいていた。
「おばあさん、レイさんの話を聞いてあげてください」見かねて野太い声をあげたのがまずかった。
祖母は機嫌をそこね、ぷいっと横を向いて黙る。流斗がとりなそうとすると、「あなたも黙ってないと叱られるわよ。レイが話すことがあるらしいから」とぴしゃりとさえぎる。
座敷に冷やりとした沈黙が流れた。皆の目が自分に集まるのが怖い。
うつむきたくなるのを必死でこらえる。爪痕が残るほどきつく太腿を握りしめる。でも、声が出ない。
これまでのレイなら、とっくに諦めている。でも、今日はそれではダメだ。魚たちが目の前を泳いでいく。
「おばあちゃん」声が反り返る。「これを」と桐の箱を開ける。
「お母さんに渡したとき、龍秘伝……を渡し忘れてない?」
やっとの思いで祖母に尋ねた。
「なんですか、それ。知りませんよ」と祖母は邪険にいなす。「美沙にすべて渡しました」
「お母さんは……おばちゃんが忘れてるんじゃないかって」
「あの娘ったら、いつでも私のせいにして。ちゃんと口伝も伝えたでしょ。そうそう、あのへんてこな口伝はね、伝えた後で控えを燃やさなきゃいけないことになってるの。美沙の目の前で燃やしたんですよ」
「伝えて残さないのか、おもしろいですね」
口を挟んだ流斗を祖母はきっと睨む。愛想の良さはもうどこにもない。
「探してるの。おばあちゃん、何か知らない?」
「その楽器」と風琴をちらりと見て、すぐに目をそらす。
「いわくありげでしょ。鳴らないし。妙な口伝もあるし。里の母から受け継いでからは、美沙に渡すまで納戸にしまい込んでましたよ。手放せて、せいせいしたわ」と手をひらひらさせる。
「おばあちゃん、ちゃんと思い出して」
苛立ちをまじえ声の角を立てて責めたのがいけなかった。
「まあ、それが人様にものを頼む態度かしら。知らないといったら、知りませんよ。嘘つき呼ばわりしないでちょうだい」
嘘つきという言葉に、幼い頃のトラウマが突然フラッシュバックし、指先が冷たくなる。
気づいたら、レイは桐箱を抱え玄関に走り出していた。
流斗と迅が追いかけて来たのにも気づかなかった。
後味の悪さが、気の抜けたサイダーみたいに胸に残った。
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