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【連載小説】「北風のリュート」第20話

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第20話:糸口(7)
「ざっとそんな感じです」
 流斗が岡崎での顛末を話してくれた。
「レイさんはこれまで人付き合いを避けてきたから、上出来だったんじゃないですか。ぼくたちが役に立てず、すみませんでした」
 美沙は深いため息をつく。
 こうなることは予測できていた。母はお嬢さんのまま大人になったような人だ。美沙ですら母娘関係がうまくいっているとは言い難い。母の会話の手綱を取るなんて高度なこと、レイにできるわけがない。私が付いていくべきだった。空の魚を認めてやれなかった自分が、今さらしゃしゃり出てもとためらった。私はまた間違えたのかもしれない。
 ピーポー、ピーポー、ウゥウウウ。
 県道を行く救急車のサイレンが潮騒のようだ。
 十年前のコロナウイルス禍を思い出す。レイは小学二年生だった。心を閉ざした娘のためにボッシュを飼い始めた頃だ。自粛期間中もレイはボッシュを抱いて窓辺で外を眺め、友達に会いたいとか、学校に行きたいとは一度も言わなかった。
 シャワーを浴びていた夫の雅史が、タオルを肩にちらりと二階をうかがいテーブルにつく。
「ローカルニュースで報道してましたが、呼吸困難による救急搬送が増えているんですか?」
 サイレンの聞こえた方角を眺め、流斗が尋ねる。
「十年前ほどでもないが、最近、多いね」
「熱気がこもって暑いですからね。岡崎から戻って来たら、実感しました。そりゃ、熱中症になるわって」
「熱中症か」
 プシュッ、と雅史が缶ビールを開ける。出口を見つけた気体の弾ける音がキッチンにも聞こえた。美沙はゆであがった枝豆に塩をふり、テーブルへと運んで夫の隣に腰かける。
「町医者の勘にすぎんが」
 雅史が枝豆に手を伸ばす。
「熱中症というより、高山病の症状に似てるんだよ」
「高山病ですか?」
 流斗も枝豆を口の端に挟む。
「平地での高山病なんておかしな話だが。熱中症なら発熱や顔の火照りがあるはずが、なくてね。息苦しさと頭痛、めまいだけを訴える」
 夫が先日から気に懸けていることを美沙も知っている。
「患者のほとんどがお年寄りだから、何かしらの不調は抱えてるんだけどね。この間も」と雅史はビールをひと息で呑み干す。
「三日とあけずに受診するお婆さんがいて。いつもの不定愁訴の一つかと思っていたら、翌々日に呼吸困難で救急搬送されていて驚いたよ」
「多恵さんね」美沙も眉をひそませる。
「肺か心臓に隠れた病気でもあったんでしょうか」
「搬送先の中央病院に照会をかけたが。肺に水もたまってないし、心室の壁に損傷もなく、呼吸困難の原因は不明らしい。酸素吸入で落ち着いたようだから、ゴールデンウィークが開けたら退院するんじゃないか」
 レイがボッシュを連れて降りて来るのが見えた。
「レイちゃんも、食べる?」
 こくりとうなずく。息子の櫂はまだ塾から帰らない。
 テーブルにレイの食器を並べる。
「岡崎の智子伯母さんから電話があったわ。おばあちゃん、反省してるんですって。レイちゃんに謝っておいてって。それでね、おばあちゃんの実家に訊けば、何かわかるかもしれないって」
 レイがはっと顔をあげる。
「おばあちゃんなりに考えてくれたみたいよ」美沙は娘に微笑みかける。
「北堂のひいおばあちゃん、覚えてない? 小さい頃に一度会ってるのよ。九十歳だけどお元気みたい。訪ねてみる?」
 レイがこくこくと頭を振るので、美沙はスマホを持って席を立つ。
 五日の日曜はどう? と小声で尋ねると、レイがうなずく。「では、五日におじゃまします」と答えて画面を閉じた。
 あの家に行くのは気後れがするけど、娘のためならしかたない。
 流斗はまた、ボリボリと赤カブを齧っていた。


続く


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