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【連載小説】「北風のリュート」第39話

前話

第39話:空の赤潮対策本部(1)
【6月18日、G県庁】
 今日は長い一日になりそうだ。
 鏡原とは辰峯山地で隣接するG市の空は、梅雨だというのに青空が広がる。G県庁舎前の公園の緑もまぶしい。迅から送られてくる鏡原の空の画像は赤黒く沈んでいて、樹木の葉はまばらだ。わずか数十キロの距離なのに、あまりの違いに流斗の心は重くなる。
 カッターシャツの胸もとをぱたぱたと扇ぎながら、閉まりかけのエレベーターに滑り込む。G県庁の十八階会議室。そこが今日から決戦までの大本営だ。記者会見もあるためスーツを着たが、どうも体になじまない。ネクタイを緩める。
 
 昨日の昼すぎ、待っていた電話がなった。
『決まったぞ』
 池上副司令の空気を擦るダミ声が、スマホから大音量で響き渡った。
 ほぼ同時に、気象研究所長の高塚が六研に息せき切って駆けつけた。
「天馬君、空の赤潮対策本部が発足するぞ」
 小柄な高塚を抱えこむように流斗が抱きつく。拒否られると思ったら、逆にハグし返された。
「所長、ありがとうございます」
「私よりも、そっちの御仁ごじんに感謝せねばならんだろう。それ、池上副司令じゃないのか」
『天馬ぁ、聞いとるのか』
 池上のざらつく声がスマホから轟く。
 やれやれ、怒ってるよ。
 
 流斗が要望したのは、厚労省、防衛省、国交省、気象庁、消防庁による対策本部だったが、蓋をあけると内閣官房、総務省、警察庁、G県知事、鏡原市長も加わっていた。
 正式名称は『空の赤潮対策本部』に決定され、第一回会合が十八日十時より開催されると関係各所にアナウンスがあったのが、昨日の正午だった。
 顔合わせで終わらせるつもりはない。今日一日で、すべての合意をとりつけ、明日からは実務に奔走してもらわねば間に合わない。流斗は拳を握りしめ、十八階でエレベーターを降りる。
 議長は官房副長官で、防衛省から出向している榊原が務める。同じ官房副長官で、先行の『鏡原クライシス緊急対策本部』を統括する竹内とかなりの攻防があったと、池上から聞いている。
 いくら実務に長けとろうと厚労省の次官あがりと幕僚では、そもそも気魄が違う。眼力と胆力で押し切ったちゅうこっちゃ、国防を預かるもんと同じ土俵に立てるわけないわ、と池上が嗤った。切り札になったのは、「鏡原クライシスが解決できなければ、日本は世界市場から締め出され、経済が立ちいかなくなるばかりか、食糧供給すら危うくなり国家が沈没する」と榊原が総理に詰め寄ったことだろう。『鏡原クライシス緊急対策本部』が稼働して一週間。事態は何も改善されず、悪化の一途をたどる経済状況が総理を決断させた。
 防衛省からは、池上の他に陸自第十師団長の鷺池陸将が加わった。人選は池上に任せていた。作戦遂行に最適な指揮官をお願いしたが、会議を円滑に進めたいので睨みの利く人をと申し添えると、「それは、おもろいのう」とにやにやし「強面こわもてを選ぶか」と、よりにもよって陸将を推挙してきた。霞が関の連中を黙らせるためだけに陸将にご助力いただくとは。さすがの流斗も恐れ入ったが、池上はなんだか楽しそうだ。
 国交省からは鉄道局、航空局と公園を管理する都市局の参加を指定した。ぼくの要望はそれだけですと言って、後の陣容は官房副長官の榊原に一任した。榊原自身が空将だから、三名も防衛省の将官級が正面席で睥睨する図は、各省庁からの官僚を竦みあがらせるには十分だった。気象研究所長の高塚は先ほどから額の汗をぬぐっている。
 
「では、気象研究所天馬研究官から概要を説明してもらおう」
 流斗の若さと冴えない容貌に、失望と同時に安堵が漏れる。おそらくこれなら御しやすいとでも思ったのだろう。わかりやすいな、と流斗は鼻白む。自己紹介も挨拶もなしに本題を切り出した。
「まず、政府には速やかにロックダウンの解除をお願いします」
 先に稼働している『緊急対策本部』への宣戦布告かと、あちこちで囁く声が蚊のように耳障りだ。
「鏡原クライシスは、未曽有の気象災害であり、一刻一秒を争う有事であると認識ください」
 ざわめきがミュートする。
「我々が戦うべき相手は、ウイルスでも細菌でもありません」
 流斗は全員の視線を十分に引き付けると、
「鏡原クライシスとは、空の赤潮現象です」と言い放った。
 さざなみのごとく広がるどよめきは無視する。
「海の赤潮は、水温の上昇でプランクトンが増殖し水面に蓋をします。似たような現象が鏡原の空で起き、呼吸困難者の急増をもたらしています。詳しいメカニズムやデータはお手元の資料にまとめています。必要な部分だけ説明します」
 わかってもらおうとか、理解を得ようとは思っていない。作戦を遂行する合意と協力が欲しいだけだ。
「鏡原クライシスを解決する手段は一つ」
 流斗は居並ぶ高官たちに視線を這わせる。
「現在、鏡原盆地に蓋をしている『赤い瘡蓋かさぶた』の除去以外にありません」
 イメージしやすくするため赤い瘡蓋と命名しました、と断ってから各テーブルに埋めこまれたモニターに映像を映す。イーグルのコクピットから迅に撮ってもらったものだ。高高度からの俯瞰。雲中での接写。近隣市との比較。次々に画面を切り替える。鏡原盆地にぴたりと赤い蓋状のものが覆っている映像に「何だこれは」と驚愕が走る。
「赤い瘡蓋の正体は何だ」
赤毒風蟲せきどくワームと名づけています」
 赤いラグビーボール状の微生物の映像が映し出される。
「赤毒風蟲は、互いにくっつきあってテニスボール大の球形になります」
 赤毒風蟲のボールが鎖状に連なり、やがてそれらが絡み合って複雑に広がる動画が映し出されると、全員の目が釘付けになった。
「赤毒風蟲は、風蟲ワームの変異体です。風蟲は雲を形成するバイオエアロゾルとお考えください」
 ゾウリムシ状の風蟲の画像を掲示する。風蟲が空の魚の餌であることには触れない。目に見えるものだけで十分だ。レイをこの場に引きずり出すわけにはいかない。
「赤毒風蟲は巨大化する過程で鱗化します。それらが、砂鉄が磁石にくっつくように集合し層をなす。無数の卵を抱え爆発的に増殖します。現在も鏡原上空で日々増殖し、瘡蓋の層を厚くしています」
「厚労省技官の門端だ。これが鏡原盆地を密閉し、酸素が不足して呼吸困難を引き起こしているというのか」
「そのとおりです。ただし完全な真空状態ではありません。日照不足から光合成ができず、酸素供給が激減していることも悪循環をもたらしていますが、主犯はこいつらです」
 次が最大の関門だ。これを通さなければ、計画そのものが崩れる。
 ちらっと池上を見る。池上が無言で叩頭する。
「鏡原に止まっている限り、やがて全員が呼吸困難に陥ります」
 流斗は細く息を吐く。
「鏡原全市民の一時的緊急避難、これが急がれます」
 会議室が一瞬、沈黙に支配された。それが解けると、蜂の羽ばたきのような唸りがあちこちで湧きあがった。

続く


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