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Love Letter(#シロクマ文芸部)

 珈琲と似合うのは、こんな小糠雨だ。
 細かな雨粒が通りに面した窓をすりガラスに変え流れていく。休止符のない曲のように雨が降る。珈琲をひと口すする。スラーでつながる水滴。カップから立ち昇る湯気が窓ガラスの曇りを濃くする。
 
 あの日も、小糠雨が降った。
 前触れもなく空のきげんが変わり、とつぜん降りはじめた霧雨が歩道を濡らすようすを喫茶『響』の窓際で眺めていた。
 からん、がらん、
 ドアベルがいつもよりせわしい音を立てた。
 ニスの剥げかけた木製の扉が勢いよく開き、女性がひとり駆け込んできた。ブルーグレーの薄手のコートはずぶ濡れで、肩から提げたトートバッグをコートで覆うように抱えていた。ストレートボブの髪からも、ぽたぽたと滴がたれている。雨に濡れた子犬のように頭を一振りすると、コートを脱いで中表にたたみ右腕にかける。古いフランス映画を観ているようだった。
「急に降ってきましたね。お好きな席にどうぞ」
 マスターがカウンターからうながす。彼女は軽く会釈すると、わりと大股でぼくのテーブルの傍らを通り過ぎた。
 肩にさげたバッグが重すぎたのか、あるいは右に上半身を傾けて歩く癖のせいなのか。あるいは、ぼくがコーヒーカップをソーサーに置いたタイミングが悪かったのか。おそらくその全部だろう。
 バッグの底がカップの持ち手をかすめ、カップが倒れた。半分ほどしか残っていなかった珈琲がこぼれ、うすくテーブルに広がる。ぼくは散らかしていた原稿用紙をかき集めた。
「すみません、すみません」
 彼女は頭をさげながらハンカチを取り出すと、珈琲で濡れた原稿に手を伸ばしかけ、一瞬ためらってテーブルをふいた。マスターは布巾とモップで手早くテーブルと床をぬぐう。店の空気はつゆほども動じていない。彼女だけが珈琲を吸ったハンカチを握りしめ立ちつくしていた。
「よかったら、座りませんか」
 ぼくは向いの席をすすめた。
「あの……それ」
 うっすらと茶色いシミのついた原稿用紙を指さす。
「ああ、これ。気にしないで」
 ぼくはくしゃくしゃに丸めると、隣の席に置いていたリュックにむぞうさにつっこんだ。振り向くと、向かいの席で彼女が目を見開き、口を開けて硬直していた。ほの暗い灯りの下の顔が青ざめている。
 失敗した――。ぼくは対応をまちがえたことを悟った。
「いや、これは書き損じていたから。もとから捨てるつもりで……」
 付け刃の言葉が上滑りする。こんなとき、どうすればいいのか。人づきあいの苦手なぼくにはわからない。いつもリュックにつっこんでいるタオルに気づいた。
「とにかく、これで頭をふいて。風邪をひくから」
 タオルを無理やりわたす。
「原稿は、できあがったらパソコンに入力するんで、くちゃくちゃでも、濡れていても関係なくて……」
 事実を述べたからといって伝わるわけではない。彼女はタオルを握りしめてうなだれていた。
「あの、……わたし、どうすれば」
「だから、それで、まず頭をふいて」
 彼女が胸もとで握りしめているタオルを指す。少し命令口調だったのかもしれない。ぴくりと身を縮め、彼女はあわてて濡れた髪をふいた。「この方と同じものを」と、マスターに注文すると名刺を取り出した。
 <山端商事 営業部 衣川陽子>と記されていた。
「あいにくぼくは今、名刺を持っていません」
 渡された名刺の扱いにとまどっていると、  
「かまいません。このタオルを洗濯してお返ししたいんですけど、どこにお送りすればよろしいですか」
 ああ、そういうことか。
「ぼくは売れない物書きで、だいたい昼間はここで原稿を書いている」
 伝えたタイミングで珈琲が運ばれてきた。
「よろしければお飲みください。タオルはこちらにお返しにあがります」
 引き留める言葉を持ち合わせていなかったぼくは、まだ濡れているブルーグレーのコートの後ろ姿をぼんやりと眺めていた。通り雨は止んでいた。

 珈琲は目を覚ますというけれど、そうじゃない。
 時を目覚めさせるのだ、こんなぐあいに。

 その日も、夕刻から小糠雨が降った。
 陽子と交際をはじめてから一年が経っていた。
 ぼくだって陽子がはじめての女性ではない。ただそれまでの女性たちとは半年も続かなかった。用事もないのに毎日のようにかかってくる電話。メールやLINEへの即レスを求められる。彼女たちが要求する頻繁なコミュニケーションに三月みつきもするとぼくは悲鳴をあげ破綻する。
 だが、陽子は違った。仕事のあいまに『響』に立ち寄っても、ぼくが原稿に熱中していると、静かに書き散らかしを読み、珈琲を飲み終えると「次のアポイントがあるから」と席をたつ。うす桃色の口紅がついたカップがテーブルに残っているのをみて、ぼくは数分前まで彼女がそこにいたことに気づく。デートでもそうだ。陽子の話に気のぬけたコーラのような反応しか返さなくとも、いちいち目くじらを立てることもなく受け流してくれていた。話しているのは、いつも陽子だった。それでぼくは満足していた。
 いや、甘えていたんだ。
 雨が降りだした街路に目をやりながら、その日ぼくは、気持ちがうわずっていた。テーブルの下で小箱を握る左手に力がこもる。陽子は来るだろうか。約束はしていない。日曜の昼さがり。平日とは異なる通りの風景が雨にけぶる。
 陽子といると気分がなだらかになる。よけいなことを話さなくてもいい。言わなくても察してくれる。それが心地よかった。先日、ようやく連載小説の話が本決まりになった。うまくいけば映像化も視野にいれましょう。担当編集者の言葉が耳管の奥でこだまする。
 からん、からん。
 ドアベルの音に、これほど反応したことはない。陽子が傘をたたんでいた。傍らには大きなシルバーのスーツケースがあった。ケースについた水滴をタオルで軽く拭きとると、床を軋ませながらスーツケースを引っ張ってくる。
「マスター、ここに置いててもじゃまにならないかしら」
「かまいませんよ。モカでいいですか」
 陽子はうなずきながら、ぼくの向いに腰かける。
「出張? 旅行?」
 ぼくはスーツケースを指さす。
「旅行じゃないけど……出張でもない」
 陽子は次の言葉を言いよどむ。ぼくはその日、珍しく事前に陽子に言うべき言葉を予習していた。だが、いつもとは異なる陽子のようすに、予習済みの言葉たちは喉をあがってこない。
「今日は、原稿を書いてないの?」
「ひと区切りついたから……それで」
 ぼくはテーブルの下の左手に力をこめる。準備した言葉を告げようとしたそのとき、陽子が言葉をかぶせてきた。
「わたし、海外赴任が決まったの。ふふ、大抜擢よ」
 <カイガイフニン?>
 単語が意味のある像を結ぶまで数分を要した。
 栄転話だというのに、陽子は泣きそうな顔をしている。
「それは、おめでとう。すごい出世だな」
 冷めた珈琲をひと口すすってから、調子のはずれた声で返す。喉がひりひりする。テーブルの下で左手が小箱を握りしめる。
「引き留め……ううん。いつでもそうだったわね」
 唇の端をゆがめながら、陽子はぼくを見つめる。
「雅紀は、わたしに関心なんて、結局、なかったのよね。わたしたち、付き合ってたけど会話らしい会話なんてほぼなかったもの。話すのはいつもわたしばかり。あなたは返事すらしないときもあった」
 ぼくは言いかけた言葉を呑みこむ。
「無口で不器用。それでいい、と思ってた。調子のいい言葉しかいわない男よりも、ずっといいと思ってた。でも……」
 陽子の切れ長の目がまっすぐにぼくを射る。
 雨が幾筋も窓を静かに流れて落ちる。
「うそ寒い愛の言葉を望んでたわけじゃない。けど、体を重ねても、好きだとも、愛してるとも、ひと言も言われたことがなかった……」
 ぼくは陽子に何を言わせてるんだ。
 陽子はテーブルの端にまとめていた原稿用紙を一枚手にする。
「小説ではこんなにも饒舌になれるのに、ね」
 陽子がさびしそうに苦笑する。 
 何か言わなければいけないことはわかっていた。<愛している>という言葉が喉まであがってきた。けど、今は、強要されてしかたなく言ったようにしか響かない。何をいっても言い訳にしかならない。空しくしか響かない。ぼくは為すすべもなく唇を噛み締めてうつむくしかなかった。
 陽子は原稿用紙を愛おしそうにもとに戻すと立ちあがった。
「じゃあ、フライトの時間があるから」
 雨はまだ降っていた。
 ぼくの胸には後悔の雨が、あの日からずっと降り続いている。

 パンデミックがあり四年経った今でも、ぼくは『響』の店内から通りを眺め、居るはずのない陽子の姿をさがす。英語を流暢にあやつりビジネスの交渉をする陽子の姿を想像できないでいる。ぼくは彼女の何をみていたのだろう。何をわかったつもりでいたのだろうか。
 ほろ苦い後悔がいつまでも口中に残滓となって呑みこめずにいる。
 伝えなければ伝わらない。わかり合おうとしなければ、わかり合えない。そんな子どもでもわかる努力をぼくは放棄していた。リュックの底には、今も、あの日握りしめて変形した小箱が入ったままだ。

「あら、もう帰るの?」
 からん、からん。
 ぼくが席を立つと同時にドアベルが鳴った。スーツケースを引いた女性が傘をたたみ、さっとブルーグレーのコートの水滴をはらう。
 ぼくは言葉を失って、通路に立ちつくす。
 ああ、そうだ、小箱だ。
 ぼくはリュックをひっくり返す。原稿用紙が床に散らばる。
 女はスーツケースを入口に置いて駆け寄る。「もう、相変わらずね」と言いながら、原稿用紙を搔き集める。

「あなたの言葉はここにある、そうでしょ」
 陽子は一冊の本をバッグから取り出す。雨だれが窓を流れ落ちる表紙の単行本を胸に抱いて微笑む。ぼくの著書『Love Letter』だ。陽子への想いだけを綴った。陽子にだけ読んでもらえればよかったのに、皮肉なことにぼくのはじめてのベストセラーになった。
「ああ、そうだ。そして、これを受け取ってもらえるだろうか」
 リボンが色あせた小箱を陽子の掌にのせ、彼女の耳もとでささやく。
「ぼくが欲しいものは、君だけだ」
 陽子がぼくの首に抱きつく。
「雨があがるまで、もう一杯、珈琲を飲んでいかない?」

<The End>

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小牧部長様。
シロクマ文芸部に参加させていただきます。今週も、また、滑り込みセーフ状態ですが、よろしくお願いいたします。


 

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