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アンノウン・デスティニィ 第2話「通常任務(1)」

第1話は、こちらから、どうぞ。

第2話:通常任務(1)

【2034年6月11日、東京・広尾】
 広尾の一画にある瀟洒なセレブ御用達マンションのエントランスで濃紺のスーツ姿の男が701の部屋番号を押す。応答がない。ふたたびインターフォンを鳴らす。
「川村さん?」
 くぐもった声が反響した。
「ちょっと早すぎない?」
 驟雨にも似た規則的な水流が音声を不規則に搔き乱す。東京の梅雨入り宣言は3日前にあったが、きょうは朝から晴天に恵まれている。
「申し訳ございません。れいの法案がらみでホテル前がひどく渋滞しているようなので、早めにお迎えにあがりました」
 一瞬の沈黙。おそらくインターフォンの向こうで爪を噛んでいるだろう。彼女の癖だ。
「シャワー中なの。リビングで待ってて」
 流水音がぷつりととぎれ、エントランスの扉が開いた。
 
 川村と呼ばれた男は、床が大理石調のリビングをスリッパを履かずにすり抜ける。対面式のキッチンはおそらくバーカウンターの役割しかはたしていない。カウンターにはワイングラスが2客、底にうっすらと深紅の澱を残していた。空になったワインのボトルが3本。灰皿には灰が小山をいくつもつくり、先のぐにゃりと潰れた吸い殻が散乱していた。口紅の付いているもの、いないもの。ざっと横目で数えただけで5本以上が残骸をさらし、ニコチンと酒と香水の残り香が昨夜の濃密さを物語る。先生のご機嫌はまずまずだろう。
 リビングを抜け、洗面室の扉をうすく開ける。シャワー音がとぎれることなく響いているのをたしかめ、斜め向かいの寝室へ。後ろ手で扉を閉めると頭頂部をつかんでウィッグをはずす。ウエーブのかかったセミロングの黒髪が波うった。濃紺の紳士スーツをすばやく脱ぐと、歌舞伎の早替わりのごとく、下からディオールのオレンジのジャケットスーツが現れた。スカートの裾を整える。ディオールはこの部屋の主人が好んで着る。先日、銀座のブティックで購入したことは確認済み。紳士スーツのポケットからスタンガンを抜き取り、脱いだスーツはクロコ革のブリーフケースに詰める。同じタイプのバッグがクローゼットに眠っているはずだ。
 扉をそっと開けるとドライヤーの機械音が聞こえた。スタンガンを握って扉を閉める。スタンバイ完了。
 部屋のあるじの森山たか子は、美貌の弁護士として舌鋒鋭いコメントで人気を博しメディアに引っ張りだこだ。告示を控えた参議院選挙で自政党の選挙の目玉として担ぎ出されることが水面下で約束されている。ねじれ国会をただすため、この参院選で与党は過半数を大きく超える議席の獲得をめざしていた。彼女に白羽の矢を立てたのが、自政党最大派閥長塚派を率いる厚生労働大臣の長塚繁雄だ。本日午後1時より長塚大臣のパーティーが日比谷公園前のTホテルである。むろん森山も出席予定だ。
 ガチャリ。ドアノブが下がり、扉が内側へ開く。シルクのバスローブの裾が視界に入ると同時にその首もとにスタンガンを当てる。一発で感電した森山は後ろを振り返る間もなく、どさりと絨毯に前のめりでくず折れた。豊満な胸がはだける。
 女はそのスレンダーなボディとはうらはらに力があった。森山を抱えあげシーツの寝乱れているベッドに横たわらせると、頸動脈に細い針を刺し、バスローブの胸もとを整えた。
 パーティー終了の午後3時すぎまで午睡をむさぼっていただこう。昨夜の酔いも抜けてちょうどいいだろう。枕もとには「グッドモーニング。お目覚めになったら、ニュース速報とメールをご確認ください。寝覚めに良いすてきなプレゼントをお贈りいたします」のメッセージとタブレット、数枚の男女の密会写真をばらまいておく。
(ふふ、きっとよろこんでもらえるはず)
 鼻先をあげて口だけで笑む。驚くほど森山に似ていた。
 
 ここまでは、楽勝ね。
 地下駐車場に降りるエレベーターのなかで、森山たか子に擬態した鳴海アスカは余裕の笑みをもらす。アスカは山際調査事務所の諜報工作員。世間的にはスパイとも呼ばれる。その呼び名が自分にふさわしいかどうかは、しっくりこないところもあるけれど。任務のためのこの程度の変装なら通常業務の範疇といえる。アスカの専門は毒だ。とりわけ神経毒に精通していて、睡眠から意識混濁まで症状の発露形態だけでなく、いつ発症し、その効果が何時間・何日間持続するかまでコントロールできた。ただし致死量を使うことはない。つごうよく眠っていただくだけ。ついたコードネームが「眠り姫」という。
 地下駐車場構内をわざとヒールの音を反響させながら白いワゴン車に近づく。濃紺のスーツ姿の男が慌てて運転席から走り出る。
「待たせたかしら」
 森山のスマホから地下駐車場で待つようメールしていた。
「おはようございます。ご指示どおり白のワゴン車をご用意しました」
 秘書の川村は後部座席のスライドドアを開ける。アスカが森山たか子であると信じて疑うようすはない。車は地下駐車場のスロープをゆっくりとのぼる。このご時世、著名人による市民を巻き込んだ交通事故は命とりになる。森山は立候補も控えている。駐車場出口は要注意ポイントだ。
 川村は慣れた道を運転しながら後部座席に話しかける。
「いつものリムジンではなくファミリータイプのワゴン車とのご指示を受けたときにはとまどいましたが。さすが、先生です。日比谷公園前にはすでにかなりの市民団体が集まっていました。リムジンではデモの標的にされかねませんでした」
「そう」
 おざなりに返事し、流れる車外へと目をやる。コメンテーターとしての森山の歯に衣をきせぬものいいを考慮すると、秘書にはぶっきらぼうで正解だろう。声色に注意しているとはいえ、会話は少ないほうがリスクも減る。
 国会議事堂前を通り過ぎ、晴海通りから日比谷通りへと曲がる。日比谷公園をはさんで国会議事堂と反対側にTホテルはある。なにもこんな市民感情を煽りやすい場所のホテルを会場にしなければよいものをと思う。長塚は代々続く政治家の三世議員だ。市民感情など塵とも思っていないのだろう。
 『少子化阻止特別措置法』
 歯止めの効かない少子化へのカンフル剤として発案されたこの法案が、参院選挙の争点になるといわれている。連日メディアはこの話題で持ちきりだ。施行されれば、女性は婚姻が可能となる18歳と20歳に卵子を一個ずつ、男性は18歳で射精一回分の精子を「卵子・精子バンクラボ」に提供することが義務づけられる。提供された卵子と精子はランダムに受精させ、受精卵として培養される。受精卵から誕生した子は、国の特別施設で養育されるという。
 ――生命倫理にかかわる。命をもてあそぶのか。国家プロジェクトで親を知らない子を大量生産するつもりか。経済のために人工人間を作るのか。
 市民や学識者、NPO団体などが廃案を訴えていた。その声は日増しに大きなうねりとなっている。メディアでは有識者やコメンテーターたちが批判を繰り返していた。
 公園前の道路をプラカードをもった団体がシュプレヒコールを叫びデモ行進している。警官が交通整理をしていた。その横を白いワゴン車が走り抜ける。
 規律正しいデモ。日本ではデモをするにも警察への届け出が必要だ。警官に見守られたデモを、デモというのだろうか。
「終わったら寄るところがあるから、迎えはいいわ」
 ホテルのスロープにさしかかったところで川村に告げる。
「承知いたしました」
 スライドドアが開く。アスカはそのすらりとした美脚をそろえて降り立つ。
「いってらっしゃいませ」
 川村が頭を下げる。
(さあ、腕のみせどころよ)
 美しい背骨をのばす。

(to be continued)

第3話に続く。

 



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