高3でうつ病になった私のいままで①

Tiktokに投稿した猫ミーム動画の続きをつくるモチベがなくなってしまったため、文章でになりますが私のいままでを纏めてみようと思います。

中学生時代

中学3年間は塾に通い、高校受験ガチったおかけで、第一志望のそれなりの進学校に一般受験で合格することができました。
(推薦には落ちてしまい、とてもとても落ち込みました。一般までの1ヶ月間は学校にも塾にも行かず、部屋に引きこもって勉強もせずボーとしてました。今思うとこの時点でメンタルの弱さが見え隠れしてますね笑)

高校1.2年生 

1年の文化祭。廃病院コンセプトの謎解きをやりました。
高2の体育祭。メガホンデコるのが流行ってました。
右から2人目が私。これは陸部合宿のマネの集合写真です。
これはオーケストラ部でコントラバスしてたときの私
これは2年の夏休みに中華街行った時のやつ。コスプリ撮りました。
推しとのセルフィー

うつ病になる前の元気だった頃の私の写真です。楽しそうですね。

念願の第一志望の高校に入学して、キラキラのJKライフ楽しむぞ!!と色々なこと(勉強以外)をしていました。
勉強は本当にしていなくて、殆どの授業は寝てましたし、課題は出したことすらありませんでした。一夜漬け(すらしてたか怪しい)でテストに挑み、クラス内では下から10位くらいの所をうろちょろしてました。得意科目は現国と物理基礎でしたね。

部活は陸上部のマネージャーとオーケストラ部を兼部していました。どちらの部活も毎日活動があるので、午前午後でスケジュールを組みながら、週7で朝から晩まで部活してましたね。

そして、たまの休みには推し活にも励んでいました。リリイベやサイン会にライブなど楽しかったなぁ。

毎日忙しかったけど、楽しい日々だったと思います。


高2の3月〜高3の6月 全校休校

高2の2月の終わり、期末テスト前にコロナによる全校休校が発表されました。普通に明日も学校があって、みんなに会って、部活してと思っていた日常は突然消えました。
休校初めは期末テスト無くなってラッキー!くらいの気持ちでした。しかし、いつまでも再開の兆しはなく陸部の最後の大会も、オーケストラ部最後の演奏会も全て中止になりました。とても悲しかったです。
それでも毎日だらだら過ごして、アニメ見て、それなりに穏やかな日々を送っていました。
(高校とオンライン授業や課題はやってなかったし、予備校の動画も一つも見てなかったです笑)

高3の6月 学校再開と不登校の始まり

学校が再開して、2週間目までは久しぶりの学校の怠さ、休校分を取り戻すための補講×♾️、受験生でみんな勉強してる焦りなどもありつつも、疲労感はあれど通えていました。

それが変わったのは3週間目の月曜日。物理の補講中に何故だか涙が止まらなくなってしまいました。確かに先生の言ってることは意味不明だけど、泣くほどでもないはずなのに涙が止まらなくて、寝たふりをして泣いてるのを隠してやり過ごしました。
ザワザワする心のまま予備校に行って、帰って、いざ寝るぞ!となった時です。全てが無理になりました。明日になるのが怖くて、朝が来るのが怖くて、生きてるのが怖くて。全てが怖くなって、タヒんで楽になりたいと思いました。それを泣きながら両親に訴えてたときの、どうしたらいいのかと心配しながら狼狽えてる2人の顔は今でも忘れられません。

次の日から何もできなくなりました。学校に行くことも、外に出ることも、夜寝ることも、ご飯を食べることも、何もできなくなりました。ただ一日中ベッドの上で泣いていました。

何日が過ぎたでしょうか。学校や予備校から電話がかかってくるようになりました。電話の呼び出し音が怖くて怖くて、親が不在の時は布団に潜って耳を塞いで鳴り止むのを泣きながら待っていました。

そして学校を休み始めて2週間後くらいのある日、仕事を休んだ父に連れられて、超嫌々でしたが半ば無理やりスクールカウンセラーさんのところに連れてこられました。スクールカウンセラーさんには、なんだか全てが怖いんだというお話しをした気がします。そして、医療にかかることを勧められました。

正直私は絶対に精神科の薬なんて飲みたくないし、精神科なんて怖いし行きたくないと思っていました。しかし父は勝手にメンタルクリニックに電話して、7月の2週目に初診の予約を取ってしまいまた。


高3 7月〜9月 うつ病と診断され引きこもる

初診には、またもや仕事を休んだ父に無理やり車に乗せられ、超嫌がる私を宥めながら父に無理やり連れてこられました。今考えるとこの時無理矢理でも病院に連れてきてくれた父には感謝しかありません。

初診では家族構成とか、いままでの生活歴?とか、今何が出来ないのかとか色々聞かれました。あと診察前には、うつ病のスクリーニングテストみたいな質問紙もやりました。初診は特に診断名を付けられることもなく、睡眠薬と不安時用に抗不安薬が出され、また来週来てねということで終わりました。

2回目の診察も、その後の調子や薬飲んだ感じはどうかなどを聞かれて、薬はそのまま、診断もなく、また来週に来ることになりました。

そして3回目の診察で、ついにうつ病だと告げられました。そしてその週からは抗うつ薬も出されるようになりました。
診断名を聞いて、なんだか少し安心しました。私がこんなに何も出来なくて苦しいのは、私の頭がおかしいんじゃなくて病気のせいなんだと少し思えたから。

それからは週2くらいで病院に通いつつ、家で引きこもり続ける日々が続きました。当時は液体以外は飲食が出来なかったので、ずっとメイバランスという栄養補給食品や、野菜ジャースなどを飲んでいました。
ただ何もせず、時々泣き喚いて、昼にちょっと寝て、夜は寝れなくて、ずっとタヒにたくて、でもそれをする元気もなくて、ほんとうに虚無な日々でした。


高3の10月初旬 一念発起と場面緘黙症と読めない

そんな虚無な日々を送っていたのですが、何がきっかけだったのかはもう覚えてないのですが、ある晩「どんなに辛くても学校に復帰して、絶対に現役で卒業する!」という考えに至りました。それを両親と姉に伝えると凄く喜んでくれました。久しぶりに家族が喜んでくれて嬉しかったのを覚えています。

そこからは怒涛の日々でした。
両親から私の意思を担任の先生に電話で伝えてもらって、次の週には一度3者面談することが決定しました。

父の車に乗せられて久しぶりの学校に向かいました。みんなは授業中の時間で絶対に生徒に会わないように配慮してもらってはいたものの、車から出る時、校舎に入る時、廊下を歩く時、ずっと怖くて怖くて涙が出そうで、ずっと下を向いていました。
面談では、どうやったら私が卒業できるかを父と担任の先生が話し合ってくださいました。私の欠席日数では本来はもう現役卒業は不可能でした。しかしコロナ禍だったことで夏休み前までの欠席はコロナ予防の公欠にできるからと、これから学校に通えれば、なんとかギリギリ卒業できる可能性があると伝えられました。そして、次の週からまずは1時間だけ、次は2時間連続、次は1日、という感じで、間には休みも入れつつ、少しづつ段階的に学校に復帰することが決まりました。
また、担任の先生が各教科担当の先生方に私の事情を説明して回ってくださっていたらしく、行っていなかった期間の成績を補う分の課題を渡されました。(どの教科の課題も本当に少なくて、先生方の優しさに胸がいっぱいになりました。)
そして、最後に担任の先生が「私を絶対〇〇を卒業させてみせる!」と仰ってくれました。嬉しくて、優しくて、涙が止まりませんでした。

私は「頑張ります」「本当にありがとうございます」と言おうとしました。声が出ませんでした。言いたいことはあるのに、声に出す文章も決まっているのに、脳内シュミレートでは言えるのに、声が出ませんでした。焦りました。怖かったです。結局ペコペコお礼をすることしか出来ませんでした。

担任の先生と別れて、父と車に向かっているときも声が出ませんでした。行きの車では話せたのにどうして?と混乱しました。

車に乗って、車が学校の敷地を出てしばらくしたら声が出ました。私はここで初めて学校の中だと声が出なくなってしまうことに気がつきました。

その週の診察に行った日、先生にそのことを話すと場面緘黙症だねと言われました。初めて聞いた言葉でしが、調べてみると自分の状態と一致していました。

そして、課題も少しずつでもやろうと、課題を始めたとき、長い文章を読んで理解できなくなっていることに気がつきました。
「りんごがある」くらい簡単な文なら理解できるのですが、「、」が複数ある文は理解できませんでした。
自分で声に出して読むことはできるのですが、その文の内容を理解することはできないのです。しかし、誰かにその文をゆっくりと声で読んでもらうと、理解することができることも試してみて分かりました。また、自分で文章を書くことは支障なく出来ました。
(これは推測なのですが、うつ病になってからただぼーっとしていただけでまともに文章を読んでいなかったので、うつ病発症時からこの症状はあったが、この日まで気づかなかったのかなと思ってます。)
後々主治医に聞いたところ、うつ病ではよくある症状らしいのですが、当時はまた出来ないことが増えてしまったと大ショックでした。

(結局課題は、親に全てやってもらいました。ごめんなさい。本当にごめんなさい。卒業するにはそうするしか無かったんです。ごめんなさい。)


高3の10月中旬~12月  学校復帰と筆談の日々

まあ出来ないことだらけであっても、卒業するためには学校に行くしかありません。

10月中旬のある日。母に高校まだ車で送迎してもらい、筆談用のノートを持って、6月ぶりに教室に行き授業を受けました。担任の先生の配慮で後ろのドアの横の席が私の席になっていました。先生ありがとう。授業の内容は当然まーーーーーったく分かりませんでした。もう何ヶ月分の授業を受けてないし、まず文章の理解もできないんですから当然ですよね。もちろん声も出ませんでした。友人達は久しぶり会えたと泣いて喜んでくれました。その日は1時間だけ受けて帰る予定だったので、その授業だけ受けて母が待つ車に帰りした。車に入ったらどっと疲れが現れて、涙が止まらなくなって、高校の敷地を出た後はママに怖かった怖かったと泣き喚きました。

その後暫くは一日フルではなく、何時間かだけ授業を受けて帰るということを続けていました。たまにしんどすぎて苦しすぎてやべぇって時は、抗不安薬を飲んでやり過ごしてました。ペアワークの時、相手の子に申し訳なさすぎて死にそうでした。あのとき筆談でもペアワークしてくれた子、本当にありがとう。
また、担任の先生が各教科担当の先生に声が出ないこと、うつ病の影響で理解力が壊滅的なことを伝えていただき、授業中も様々な配慮を先生方からいただきました。担任の先生、そして先生方、わたしの症状と思いを理解して配慮してくださり本当に本当にありがとうございました。

そして10月末といえばの中間テストもやってきました。担任の先生と話し合い(筆談で)、別室で受けることになりました。また、学校の会議等々でも私の状態のことを話し合って下さったようで、どの教科も中間を受けて、名前かいて、解答欄を適当に埋めてくれさえすれば配慮して頂けるということしていただきました。本当に学校側には感謝しかないです。
試験監督は担任の先生と副担任の先生が受け持ってくださり、別室受験は何も分かりませんでしたが、全教科受け切ることはできました。
ある教科の途中で体調がどうしても悪くなってしまったのですが、そのとき試験監督をしていた担任の先生が誰にも言わないから試験時間終わるまでソファで寝ていいぞって言ってくださって、ソファに横になったら先生のブランケットをかけてくれて、苦しいのと先生の優しさで涙が止まらなくなってしまうこともありました。
全ての教科を受けきったときも、私の机と向き合わせの机にいた先生が、「よく頑張った!やりきったな!」と笑顔で褒めてくださったのもとてもよく覚えています。

そして、11月になった辺りでまる1日通えるようになりました。
まる1日通うとなると問題なのが、お昼ご飯です。この時期には家では液体以外にもドロドロした粥くらいなら食べれるようになっていましたが、学校では液体しか飲めず、みんながお弁当を食べている中メイバランスを飲んでいました。
また、流石に配慮いただいてるとしてもなにもしないのは良くないし不安だと思い、各教科の先生のところに周り筆談で、「難しいことの理解は難しいけどそれでもできる課題を出して欲しいです。」と頼みに周り、写すだけの課題などをそれぞれの教科で出してもらいました。それを出して受け取ってくれた先生方には感謝でいっぱいです。
さらに、万が一卒業出来なかった時の事を考えて、11/7には高卒認定試験も受けに行きました。私は現代社会以外は、2年生までの単位で免除されたので現社だけの受験でした。少しは回復しつつあったものの文章の理解能力はまだ完全には戻ってなかったので、殆ど勘で解くことになりました。
(結果としてはまさかの合格でした笑)

12月に入ると期末試験がやってきました。ただでさえ先生方への迷惑になりすぎてるのに、これ以上迷惑になるわけにはいかないと思い、みんなと一緒に教室で受けました。当然問題はわけわかめでしたが、みんなが必死に解いてるなか自分は何もできないという状況でも、パニックになったり泣き出したらせず受け切れたとこが当時はとても嬉しかったです。
また12月にはたまに声を出せる日もあったりして、みんなに挨拶できて、いつもありがとうって言えて嬉しかったです。

そして、冬休みに入り、年明けは自由登校期間なので、私の高3の授業は全て終わりました。
{ちなみに共テは申し込みはしてたのですが、今年の受験は諦めていたし、周りの迷惑になるのも嫌なので受けませんでした。)


高3の1月 卒業決定の知らせ

そして、1/6に担任の先生から成績会議?で私の卒業が決まった(内定)というお電話を頂きました。本当に本当に嬉しかったです。

復帰した後の学校は、本当にきつくて苦しくてしんどかったです。行き帰りの車ではずっと怖くて苦しくて泣いていました。授業中に苦しすぎて無理になって抜け出して人気のない所で泣くことも何度もありました。授業中に泣き出してしまい動けなくなって、友人に救出してもらい保健室連れて行ってもらったこともありました。廊下で泣いてたら動けなくなって過呼吸になってしまい、たまたま巡回してた副校長先生に保健室まで運んでもらうこともありました。どうしても体調が悪くて、休み時間は保健室の奥の部屋で休ませてもらうこともありました。
それでも私は「這ってでも学校に行って卒業するんだ!」って決めたから、その目標に向かって理解してくださる方々の支えもあり、なんとか卒業までこぎつけることができました。
特に私のために沢山走り回ってくれて、沢山サポートしていただき、沢山励ましてくれた担任の先生には本当に感謝しかありません。きっと私は先生がいなかったら卒業できなかったと思います。この場を借りて最大級の感謝を述べさせてください。本当に本当にありがとうございました!!!

これは泣くときとかに来ていた校内の秘密の場所。
これは一緒に登校してたサメ吉くん


高3の3月 卒業式

3月の卒業式にも参加できました。
しかもこの日はなんと、声も出たんです!!!
晴れ着のみんなと写真を取れて本当に嬉しかったし、みんなに今までのお礼を声で伝えられて本当に嬉しかったです!担任の先生にも声でちゃんと感謝を伝えられたのが本当に嬉しかったです。

担任の先生と
友人と


とりあえず高校時代は終わったので、続きは次の記事書いてみようと思います。

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