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3か月

先日、片付いた台所で小松菜の下処理をしていて「うわあ、なんか幸せかも」と思った。また別の日に新しくできたカフェでつやっとしたドーナツを口に入れて「なにこれ幸せ」と思った。

あー回復していると、嬉しくなって「やっぱり回復している」と実感した。

今、自分の置かれている状況が自分にとって「幸せ」であることは、もう何年も前からわかっていて環境が変わっても幸せを認識してはいた。人生のなかで不運だといわれることは数えればたくさんあるのかもしれないけど、それに目を向けるのをやめて今、与えられているものを認識できれば、幸せと思えた。実際に、恵まれていると思う。

ただ、休職前と休職して3か月はそう思えなかった。恵まれた環境、だという認識をしていても心がそれを実感していない。なにをしても、なにを食べても「あぁ、幸せだ」なんて思う瞬間がなかった。毎日、良いことも楽しいことももちろんあったし、夫との生活は幸せだと思う。でもこう、夫や周りにいてくれる誰かと離れて、自分自身で感じれる「あぁ、幸せ」はなかった気がした。美味しいものを食べても「美味しい」だった。それはそれで幸せなことだというに認識はしている、そんな感じ。いつからそうだったのかは覚えていない。覚えていないくらい懸命に走っていたのかもしれないし、気付かないように踏ん張って踏ん張ってやってきたり、立ち止まらないように、心が鈍くなる方法で自分をどうにか走らせていたように思う。

「もうだめだな」と思った数か月前の自分の状態はネットで検索すると適応障害に当てはまるのかなと思うような状態で、振り返ればここ数年3回ほどはいろいろな症状が出るまで頑張って、がくっと疲れて少し休んでを繰り返していた。もともとなんでもストレスと捉えやすい傾向にあるなかで、それらをバネにしていたけど、蓄積されているものもあったのだと思う。「もうだめだな」はあるきっかけを境に急にわたしの真ん中に居座って、雪崩のようにわたしの調子を崩していった。自分の感情のハンドルやブレーキを自分でうまくコントロールできないような感覚もあった。自分自身のあまり好きではない部分が強調されてすごしていた数か月は、周りと自分を傷つけた。
周りを傷つけて、その結果が自分を傷つける。

休職とキャリアを天秤にかけて、休職を選ぶということは、追い詰められないとできなかった。不出来な大人だなと思う。上手に調整していればキャリアアップも容易かっただろうに。

休職してから、メンタルクリニックに行く勇気も気力もでず、なにもせずに過ごすということを決めて最初の1か月は本当に夫以外とは殆ど外にでず、スーパーにいくのも一苦労だった。休職して2週間目くらいはそんな自分を責めそうになっていた。けれど「いいの、そんなこともできないくらい疲れているんだから、それぐらい頑張っちゃったのだから、仕方ない」と言い聞かせて過ごした。最初は無理やり言い聞かせた。取り繕いたい事柄からも距離を置いて、夫以外とコミュニケーションをとらなくて良い状況にして、怠惰に過ごした。

3か月経って、心が淀んでいたりざわざわしていない時間が増えてきた。同じことについて考えても、マイナスに傾きすぎることがないことに気付く。怠惰に過ごしているので、考えることの状況はなにも変わっていないのに。
心地よい自分に戻ってきている気がしている。

アラフォーのわたしは、どんな人なんだろうと思う。仕事が好き?人と関わることが好き?キャリアアップが楽しい?人の役に立つのが楽しい?お金を稼ぐのが好き?20代、30代前半と迷いなくYesと言えていたことに疑問符が付いていることに今やっと気づく。

だって小松菜を切ったり、ざるにあげているのが幸せなのだ。でもまだ回復途中だからな。自分を理解する努力をして、気力が充満したもう少し先のわたしに結論を委ねたいなと思う。

少しずつ、変わっていく季節と景色と感情を大切にして。

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