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読書日記「春に散る」を読み終わる
読み終わりたくない本があります。
終わるのが惜しい。
ていねいに読み終わりたい。
そんな本でした。
今回はネタバレ覚悟で書いてみようと思います。
あくまでも私の感じたことを。
映画と小説
「春に散る」は映画を先に見ました。
著者、沢木耕太郎さんは、映画化に際して、タイトル名「春に散る」と、主人公の名前「広岡仁一」を使うことを許し、それ以外はどう変えても良いと言われたそうです。
大枠は同じですが、ストーリー、設定はやはり違いました。
それはそうですよね。
両方を比べて、どうのこうの、というのは意味がないと思います。
でも、読みながら、佐藤浩市、横浜流星、山口智子が頭に浮かんでいました。どうしてもイメージしてしまう。本のカバーも、映画のシーンです。書店には、「映画の原作本」のコーナーがあるくらい、コラボしている。
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先に見て良かったことは、ボクシングの迫力やすごさが、読みながら蘇ったこと。映画のボクシングシーンは迫力ありました。ビンビン迫ってきた。臨場感がありました。
小説は読み手が完成させる
映画はどうしてもドラマチックになります。断られても断られても、「ボクシングを教えてほしい」と広岡に頼む祥吾。「一瞬」だけを生きると決めた二人。興奮したし、感動した。
小説に映像はない。しかしボクシングの美しさが現われていると思いました。どんな技を出すのか、手は体はどう動くのか、その時何が起きているのか。文章は詳しく書いていたし、読む方も想像を働かせてシーンを再現する。ボクシングはアートじゃないかと思ったくらいに。
そして、小説は、世界戦がクライマックスではあるのだけど、メインではないように思いました。
広岡は若い頃ボクシングにかけ、夢破れ、さまよう。ホテルで財を成したあとも、どこか満たされていない。日本に帰って何をするとも決められない。
昔のボクシング仲間と再会、祥吾と出会い、仲間と一緒に祥吾に賭けてみようと決心する。ボクシングに対する熱情を呼び戻す。
そんな広岡の心の動き、揺れや戸惑い、喜びや高揚感が丁寧に書かれています。読みながら共感したり、心配したりしました。
お前を信じよう。たとえそれが奈落への道出会ってもかまわない。そのあとのことは引き受けた。やってみるがいい・・・・・・。
広岡が大きくうなずくと、祥吾はうっすらと笑みを浮かべたようだった。そのとき広岡は、自分が他者に対して、その存在のすべてを無条件に受け入れたのは初めてのことだったのではないかと思った。
どこかで、映画は作品を仕上げてから提供する、小説は仕上げを読み手に委ねる、みたいなことを書いてあって、なるほどと思ったことがあります。そうかもしれない。
小説は人間を描く。
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広岡は、佐藤浩市のイメージはあるものの、クールで深みがあって、そしてかっこ良かった。みんなに、祥吾に、佳奈子に信頼されていた。
周りの人たちも人物像が浮かび上がってきた。
ボクシングとは
ボクシングとは何か。文中より。
相手を叩きのめし、キャンバスに這わせる。そんな無残なことを何故しなくてはならないのか。それは世界一の存在になるためだ。どうして世界一の存在の存在にならなければならないのか。それは世界で最も自由な存在になるためだ。
リング上のボクサーは無限に自由です。しかし、ボクサーは無限に自由であると同時に、無限に孤独なんです。
祥吾は世界戦のリングの上で自由の「向こう側」を見る。
ボクシングは人生だ。
カッコ良すぎるけど。
最後に。
ツッコミたいところもあるけど、終わり方がせつないけど、それも含めて物語の世界にひたるのだ。
やっぱり先に小説を読みたかったな。
*ヘッダー写真、お借りしました。とってもいいです。
蛇足:比べないと言いながら映画の感想です。
いえいえ、無理には・・・。(謙虚)
エイヤッ!もう投稿してしまおう。
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