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自己分析してみた

 まあ、初めから人に読んでもらおうと思っているわけじゃない。
というのはウソ。読者数を気にしないといいながら、実は気にしている。
書いたら読んでもらいたい。
 だが、書く目的はそこではない。読んだ人が少しでも嬉しくなったり考えたり、何かのインパクトを与える文章を書きたいと思っている。

 少しでも味わいと深みのある文章を書きたい。高みを目指したい。それはちょっときれい事過ぎないかい?いや、それでいいんだ。そのために自分の文章の特徴って何なのだろうと思った。自己分析してみたいと思ったのだ。

自分の文章って
・長い
・肩に力が入っている
・20年前から進化していない
・ますですとだ、であるがいっしょになる
・自分のスタイル
・最後に

長い


 私はブログ歴のほうが長い。いや、その長い、じゃなくて、文章が長いという話。
 私のブログを登録して下さっている方は2人で、そのうちの1人が姉である。その姉から時々「文章が長いから、ちゃんと読んでいない」と言われるのだ。
noteは文章は長いと思う。noteは「作品」だから、それはその作品の妥当な長さということだ。私の場合、あれも書きたいこれも書きたいとなると、長くなる傾向がある。無駄な文がないか検証が必要。
 それと、やはり最後まで読ませる力が必要。長くたって面白ければ読むはず。その力がまだないということだ。

肩に力が入っている

 私は感情豊かな人間である。すぐ感動する。すぐ興奮する。そんな気持ちで書くから、どこか肩に力が入っているような気がする。この前の「石田組」の文章も、テンションが高い。読む方は、いい時もあるのあるのだろうが、ちょっと疲れるかも。
 人は自分が好きな人が必ず好きとは言えない。「良かったよ!」「すごかった!」と話しても、聴いている方の反応はもう一つという経験はよくする。文章も同じかもと思う。もう少し落ち着いた人間になりたいものだ。

20年前から進化していない


 そのブログの過去分を、ブログのサービスで書籍化したことがある。上巻下巻それぞれ5部ずつくらい作ってもらった。それが本棚にある。もう背表紙が日焼けして色が薄くなっている。
 それを久しぶりにこの前引っ張り出して読んだのだ。文章はそんなに変わっていない。それは進化していないということだ。それどころか、最近は言葉が出てこない。ほら、あれってなんて言うっけ。あのことを書きたいのだけど、なんていう言葉たったっけ。そんな感じで産みの苦しみを味わっている。

「です・ます」と「だ・である」がいっしょになる

 この二つのスタイルっておかしなもんで、「だ・である」で書き出しても。途中で「です・ます」のほうが書きやすいことがある。でも一緒には使えないので、途中でどちらに揃えるのだが、なんだかギクシャクする。この使い分けが上手くいっていない。
 論理的な文章をめざしているが、方向があちこち飛ぶ。スムーズに流れない。

自分のスタイル


 そうはいっても、私は自分が少しおもしろい文章を書くとは思っている。自分のスタイルがあると思っている。それは夫との間でかわされるバトルとか日頃の出来事とかを書くときに発揮される。

 宮沢賢治など、生前はあまり認められず、没後評価されたってこの前聞いた。自分もそれか?いや、本物の人はそんなこと言わないから。でも、全員に評価されなくたっていい、大切な人に評価されたらいいとこれも聞いた。それでいい。(あ、やっぱり評価を気にしているね)
 この、「自分のスタイル」というのは大事だと、大昔に習った先生に言われたことを覚えている。大事に育てていきたい。

最後に

 結局のところ、いま、私は「自分のために」書いていると思う。日記のように自分が忘れないため、抑えきれないわき上がる感情や思いを言葉にするために。それは楽しくて仕方がない。
そして作品として投稿するには、「読んだ人が嬉しくなる文章」を「相手のために」書く。そのことを心に止めて書いていきたい。

最後の最後に、
読んで下さる方々、本当にありがとうございます!

コレ、やっぱり長いでしょうか?



太陽の塔。後ろから失礼します、見出し画像も。

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