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「それぞれの最終楽章」 新聞Beより

「新聞より」を書きます。
このところ、お寺さん、住職さんのことに目が止まります。
前回の「傾聴のコツ」の著者もお寺さんですし、昨日の朝日新聞Be版は
一面がNPO法人で、ひとり親や貧困家庭にお菓子や生活必需品を届けるシステムを作ったお寺さんの話でした。

 シリーズで続く「それぞれの最終楽章」の今は、僧侶・高橋卓志さんのお話です。住職は辞めておられフリーランスのモンク(僧侶)だそうです。今まで見送ってこられた方々のお話から、今回、30年前に亡くなられたお父様のお話をされています。

 お父様は死の直前末期がんの激痛に苦しみます。脊髄に麻酔を打つ治療法を提案されます。ただし投与すれば命は長くて10日。お父様に伝えると、答えは「やってもらってくれ!」そしてその3週間後、ご自宅で穏やかに息を引き取ります。

 お父様の決断は、高橋さんにとって衝撃だったそうです。死を受容していたと思っていた禅僧が痛みに混乱し、命を伸ばすより死を選んだ。その頃の高橋さんは仏教の教えを説き、死にゆく人に心の安らぎを与えることこそ僧侶の役目だと信じていた。しかし、「父の言動はそんなものは通用しない現実を僕に突きつけた」とあります。

 鎮痛剤を増やすとそのまま永眠するというのは、日本では許されていない安楽死とどこが違うのか。高橋さんんは割り切れなさを感じます。また、友人の医師が「今はセデーション(薬剤で意識レベルを下げること)によって、患者を上手に、安らかに、美しく死なせるのが主流になっているのではないか」と疑問をぶつけてきたそうです。

 「穏やかな死」は「いい死」、もっと生きたいと訴え、もがき、苦しみ、悲しみを吐き出す死は「悪い死」。そんなイメージが定着しつつあるのではないかと気がかりに思っていたそうです。

 そして、そんな高橋さん自身がガンになります。そして今までは「二・五人称」だったのが、「一人称の死」を考えることになります。

 ここからが私の感想です。

 コラムを読んで思ったのは、「穏やかな死」は「いい死」、もっと生きたいと訴え、もがき、苦しみ、悲しみを吐き出す死は「悪い死」か、というところです。

 お父様が亡くなられたのが30年前。素人考えですが、その頃と今とでは、痛みの軽減、緩和ケアはかなり進んでいるのではないでしょうか。そうなると死の受け入れ方、選択肢も変わってきているのかもわかりません。

 痛みというのはそれも激痛であれば、それを緩和する方法があれば、たとて死期が早まったとしてもそれを選ぶことは誰も止められないと思います。筆者がショックだったのは死を受容していたと思っていたお父様が楽になるほうを選んだからでしょうか。お父様が僧侶だったからなのでしょうか。現実はそれほど厳しいと知らされたことでしょうか。

 今はACP(人生会議)と言って、自分の終末期をどう過ごしたいか、例えば延命治療をどうするか等前もって話し合いましょうというのを厚労省が推奨しています。自分の意思を記録に残しておくのです。でも、決めたとしても、それは変わり得るものです。ACPでは、変わってもいいと言っています。

 病気になる前、なった後でも考えは変わるでしょう。自分だったらどうするか、その時になったらどう思うか。高橋さんはその立場です。だからこそ、この連載に「一人称」の死へ、とタイトルを付けたのでしょう。

 「穏やかな死」とは何だろうと思います。コラムの最後に出てくる友人の話からも、その場になると人は悩み苦しむ(心で)と思います。だれでも生きたいと思うでしょう。でも受容して最期を迎える。それは人それぞれの道なのかもわかりません。

 今シリーズ6回のうちの4回目です。あと2回あります。それを読まないうちに書いていることに多少迷いはあります。でも、これまでのコラムを読んで考えたことを書いてみました。

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