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パラ・ヒューマン・ウマSFとしての『ウマ娘』、そして、ウマの隠喩とアニメーションの詐術

Cygamesによるスマートフォン向けゲームアプリ『ウマ娘 プリティーダービー』がオタクたちのあいだで流行っている。

わたしは健気な馬のその命を削らせて走らせ賭けに熱狂する人間どもが感動する競馬という文化自体嫌いなのだが、それに美少女を合わせ応援する魔合体文化として『ウマ娘』には先行する『艦隊これくしょん』などとの「美少女擬人化」文化の次のステージを見せており、賛同しないが美学的に関心がある(ちなみにアグネスタキオンのキャラクタは好きなのでストーリーは全部観た)。美学的に何が面白いかと言うと、『ウマ娘』はリアルな愛着とフィクショナルな愛着の文化を癒着させることに成功している。すなわち、

艦隊これくしょん:現実の戦艦への愛着+美少女=強い。
ウマ娘:現実の馬への応援+美少女=最強。

リアルアイドル文化とは毛色の違うソシャゲ–美少女文化史のなかで『ウマ娘』は特有な地位を占めることになるだろう。

ウマ・メタファーの美学

さっきみたいな話は誰かが言っているから、脚の話をしよう。にじさんじ所属の「月ノ美兎」というバーチャルYouTuberは興味深い指摘をしている。

「背格好、ウマじゃん!」
「なんでウマに見えるの? 発明じゃね?」

ウマ娘の走り方は異様である。

人間の走り方はこう。

上半身は地面に対して垂直。後ろに蹴るのは腕の長さほど。対して、ウマ娘の走り方はこう。

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ものすごい前傾姿勢である。そして人類はこんなに脚を後ろに蹴り上げない。

ここから分かるのは、ウマ娘は人類とはかなり異なった骨格とか筋肉の付き方とかをしており、この前傾・蹴り上げ態勢で全速を出せる「ウマ娘」という種類の何らかの生命体であるということだ。

そう、ウマ娘はパラ・ヒューマンである。

パラ・ヒューマンとしてのウマ娘のワンダー

こうしたパラ・ヒューマン性が「美少女」であるウマ娘に付与されているというのはどういうことだろう? 『アークナイツ』もまた、「アーツ」能力と引き換えに「鉱石病」を患ったキャラクタたちが存在し、生命を削っていく存在である。

『アークナイツ』には戦闘美少女のみならず戦闘美男子も存在するのだが、『ウマ娘』においてウマ男は見当たらない。演出上の都合はもちろんあるだろうが、ウマ男では驚異の感覚が減じられるからだろう。

「女の子みたいな走り方」を消去し「人の走り方」すらも消去した「ウマの走り方」を美少女が走ることがウマ娘の驚異の感覚をドライブさせる。

ウマ娘の走りとは、アニメーションの隠喩の能力を引き出したある種の異化効果をもたらす。ここでは、ふつうは重なり合わないものが重なることで重なり合う両方の要素が際立つ効果を発揮する。

ジョン・ラセターの可愛らしい親子のスタンドライトを観て欲しい。

これは、次の隠喩の重ね合わせが起きている。

スタンドライト:無機質なもの、動かないもの
親子:愛情深いもの、動くもの
スタンドライト親子:無機質で愛情深いもの、動かない動くもの

ここから、

ウマ:動物・躍動
美少女:人間・「女の子らしい」
ウマ娘:動物的な人間・躍動的「女の子らしさ」

異なる性質は重ね合わされ驚異の感覚が生み出される。これがウマ男であると、動物性と躍動の性質は男性性に結びつきやすいので、性質の距離を生み出せはしない。

ジェンダーは走っている

戦闘美少女コンテンツのジェンダー的批評はこうした驚異の感覚を催させるまさにわたしたちの「女性性」や「躍動」といった抽象的なイメージが具体的な運動、すなわち「走り」にどう現実化され運用され、感性的経験を生み出すかを分析するところから始まるだろう。

返す刀でわたしたちが問わなければならないのは「では、陸上女子など、女性のスポーツにおける運動は(とくに男性によって)どのようにまなざされているのか?」という問いである。YouTubeで「陸上 女子」と検索すると、性的な目線から選手を観させることを企図した動画が大量に出現する。これは、女性選手に対して「躍動」といったカテゴリを適応することの拒否を物語っているのだろうか? それは「ウマ娘」を性的に楽しもうとする試みが公式には禁じられている現象と奇妙な対比をなしている。

現実において、女子選手の運動を性的に楽しもうとする実践が存在しており、それは彼女らの選手としての達成をおざなりにする(倫理的にはもちろん)美的にわるい試みであろう逆に「ウマ娘」に対してはその胸部を強調したりするファッションにはあまり触れられずに「走っているのを観て感動した」という声を実況者から聴くのは、不思議な対比である。わたしたちは、女性性に他のメタファーを重ねることでようやく女性選手の走りを他でもない「走り」として美的に味わうことができるようになるのだろうか?

終わりに

わたしはいずれ「戦闘美少女コンテンツと美少女たちの運動」から、どのように実際に女性的なものをわたしたちが経験しているのかを美学的に研究する予定である。『ウマ娘』のファンの人々のウマ娘に対する運動への魅惑をそれとして切り出しつつ、わたしたちの経験の謎めいた諸相を分析していきたい。

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