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火の山七 第一章 幽霊の世界「マスターが死後の世界を論理的に説明したこと」

 喫茶店のカウンターの端に、ノートパソコンが開いてある。A4型の、マスター愛用のやつだ。薄暗い空間の中で、パソコンの画面だけが鈍い光を放っている。
 いつもの時間のいつもの場所、相変わらず一人の客もいない狭い空間に、マスターが一人気配を隠してぼんやり座っている。
 僕はパソコンの前のカウンターに座り、画面を覗き込む。

 中有の世界

 画面の中央に、大きな文字でそう書かれていた。おそらくマスターが客待ちの手持ちぶさたに、思いつくまま書き殴ったのだろう。
「何か大事なものでも書いていたの?」
 と、僕が聞く。
「なに、いつもの癖さ。暇な時はいつでもパソコンに文字を打ちながら遊んでいるんだ。文章を書くことで考え、また考えたことを文章にして、頭の中を整理する。でも、それを整理しようとしたなら、いつでもまた別のことが浮かんできて、結局収拾がつかなくなって止めてしまうんだ」
 マスターは立ち上がって、僕のためにサイフォンで珈琲を沸かそうとする。
「ふーん、このパソコンにはマスターの頭の中身が記録されているんだ。ちょっと、覗いてみてもいいかい?」
「どうぞご自由に。どうせ紙屑のような言葉の羅列だよ」
 マスターは僕の方を振り向こうともせず、珈琲豆を量ることに集中している。
 僕は「次ページ」をクリックする。

 中有の世界
 ーーこの世とあの世の狭間にある世界
 いや、正確に言うと、この世と合わせ鏡になっている、もう一つの世界

「中有の世界」
 僕はその言葉を初めて耳にした。というよりも、初めて目にした。僕はその言葉が気になって、さらに「次ページ」をクリックする。

 俺はどこにいるんだろう?
 どうしてこんな世界に来てしまったのだろう?
 ここが中有の世界ならば、俺は幽霊なのだろうか?
 俺はここでいったい誰を待っているのだろう?

 僕は文字を目にして、いきなり背筋が寒くなるのを感じた。なぜだか、分からない。おそらく何の理由もないのかもしれない。
 だが、文字が一つの毒をもって、僕の神経を突き刺した。
 そんな感じだ。
「マスター、これ、なんだい? 中有の世界って」
 僕はそう言いながら、「次ページ」をクリックする。すると、画面は空白で、僕は拍子抜けして、ぼんやりその画面を眺めていた。
「中有の世界かーーそれについては俺も俺なりに考えていないわけではない」
 マスターはそう言って、煙草に火をつけた。薄暗い喫茶店に、小さな灯りがともる。マスターが煙草を吸うたびに、小さな灯がともって空間が少しだけ歪む。
 ぼんやりと灯りが滲み、それがシグナルのようにいったん消えては再び赤くなる。
 マスターの鼻から規則正しく煙が宙に上る。あの白い煙はどこまで上り、そしてどこに消えていくのだろう。
「洋、たとえば、人間は死んだらどうなると思う?」
 僕は少し考え、「天国か地獄に行くんだろ? それとも無になるのか」
 マスターはにやりと笑い、「おい、もう少し頭を使えよ。お前、天国や地獄なんて妄想を本気で信じているのか? それなら天国と地獄はどんな世界で、誰が作ったんだい? そこにはどんな法則があり、何を持って人は裁かれるんだ? 仏教の作り話を信じるのか?  
 宗教の押し売りなんて、まっぴらごめんだぜ」
「マスターに宗教を持ち出すような愚は、僕だってしないさ。で、マスターの答は何なんだい?」と、僕が聞く。
「論理的には、死んだら無になるのか、ならないのか、そのどちらかでしかない。仮に死んでも無にならないとしたなら、人間は肉体を喪失し、魂だけの存在となって彷徨い出すほかない」
「魂だけの存在となると、いったいどこに行くの?」
「そこは想念の世界さ」
 と、マスターが言う。
「想念の世界?」
「そうさ、想念だけの世界。肉体がないわけだから、その人の思いがそのまま具象化される世界だ」
 僕はしばらく想念の世界について考えてみた。
 同じ女の子でも好意を持った人から見れば可愛く見え、嫌っている人から見れば嫌な顔に見える、そんな世界だろうか?
「たとえば、日本の幽霊には足がないのに、西洋の幽霊には足がある。それはなぜか? 昔は狐やタヌキが人を化かしたのに、今や彼らは動物園の檻の中でおとなしくしている。それはなぜか? 」
「確かに考えてみれば、疑問だな」と、僕が言う。
「想念の世界だと思えば、それらもすべて説明がつくさ。幽霊はもともと肉体を喪失した存在であって、姿形などない。でも、日本人は幽霊には足がないと思っているから、幽霊はそのような姿で現れ、西洋人は足があると思っているから、西洋の幽霊はどたどたと足音を立てて登場する。昔の人は狐やタヌキが人を化かすと信じているから、幽霊は狐やタヌキの姿となって現れる。すべてはその人の想念が具象化しているに過ぎない」
「う〜ん」と、僕は思わず考え込んでしまった。
「それじゃ、マスター、幽霊自体が本来どんな姿かではなく、それを見る人それぞれの想念に応じて、様々な姿で現れるってこと、か」
「神だって、同じことだ。神は一つであっても、同時にそれぞれの人々の中にそれぞれの姿をとって現れる。一神即多神だ。それなのに自分たちの神を絶対と信じて、相手の神を否定し、殺し合いまでする。それが人間だ」
 マスターの言葉は僕の胸中に真っ直ぐ入り込んでいく。以前教会で聞いた牧師の説教よりも、僕にとっては腑に落ちる理屈だった。
 しかし、得体の知れない不気味な感触が、僕の神経にしだいに染みいっていくのを感じていた。この不安はいったいどこに起因するのだろうか。
「じゃあ、三途の川も存在しないってわけか?」と、僕が聞く。
「もちろん、存在するさ。死んだら三途の川を渡ると信じている人は、その川を渡ってあちらの世界に行くだけだ。死んだ瞬間、生きている間に作り上げた想念が、そのまま具象化されるわけだからな。キリスト教を信じている人にはイエスが、仏教を信じている人には仏様が現れる。だから、信仰も捨てたもんじゃない」
 僕は再び考えた。マスターは自信ありげに、煙草をくゆらせている。
「同じ人間でも、好きな人から見れば美人だし、嫌いな人から見れば不細工になって現れる、要はそういうことだろ? だって、肉体がない限り、その人の思いがそのまま姿形になって表れる」
「まあ、そういうことだな。卑俗な例だが」
「あっ、そうか。善意の固まりの人って、死んだらすべての人が美しく清らかな姿となって現れる。人を憎んだり怨んだりする人は、死後醜い人たちに囲まれて生きていかなければならない。これって、考えてみれば、実に怖いな」
「お前が水月を絶世の美女だと思い込んでいれば、死んだらまさに絶世の美女となって水月が現れるんだ。非の打ち所のない美女として。死後の世界も棄てたものではない」
 と、マスターが皮肉っぽく言う。
「だとすれば、死んだらいいことばかり頭に浮かぶようにすればいいんだ」
「想念は決してコントロールできるものではない。たとえば、ずっと憎み続けていた奴がいるとする。それなのに、お前、そいつを突然よく思うことができるか? いくら頭でそう思うと努めたところで、そいつは実に嫌な姿形でお前の前に現れるに違いない。それがお前の想念ならばな。」
 マスターはそう言いながら、僕の前に入れ立ての珈琲を置いた。
 僕はしばらく湯気をぼんやりと見つめ、気を取り直したようにブラックで飲んだ。ほろ苦い味が舌全体に広がり、僕の頭の奥が痺れるような気がした。
 考えなくてはならないことが、目の前に積み重なったいるみたいだった。でも、いったいどこから考え始めていいのか、まったく見当がつかない。
 第一、この目の前の男は、いったい何者なのだ。
「お前、天国や地獄は存在すると思うか?」と、マスターが聞く。
「分かった。天国も地獄もすべて想念の世界だと言うつもりだろ?」
「察しがいいな」と、マスターがにやりと笑う。
「神や仏が何も地獄を作って人間を罰しようとしたのではない。人間が自分の想念を天国や地獄に作り変えているだけさ」
「でも、地獄に行きたいなんて思う奴は誰もいないぜ」と、僕が言う。
「天国や地獄は行くところではない。すでに自分の心の中にあるものだ。それが死んだらそのまま具象化して現れる。人の心の中にあるものが、逆にその人をその世界に包み込んでしまう」
「なるほど、天国や地獄はどこか遠くにあって、人間が死後裁かれて自らの意志とは関わりなくそこに連れて行かれるのではなく、その人の心の状態に過ぎないんだ。僕たちは生きている間にすでに天国や地獄にいる。マスターの説も確かに一理あるな」
 と、僕が思わず頷く。
「たとえば、ある男は生前人を殺したとしよう。すべてうまくやった。完全犯罪だ。そういった男が死んだ瞬間、まず脳裏に浮かんでくるのは、殺した奴のことだ。すると、自分が殺した奴が、殺された姿のままで目の前に蘇ってくる。血塗れになり、恨みがましい表情で蘇ってくる。殺された奴は、その瞬間の姿のままで凍りつき、想念となって男の心に巣喰い、その男が死ぬのをずっと待っていたわけだ。そして、男が死んだ瞬間、殺された奴は不死となって再び蘇る。男は恐ろしい形相で叫び、殺される前に相手を殺そうと、逆に襲いかかるかもしれない。でも、相手はすでに死んでいて、肉体を持っていない。殺しても殺しても、さらに凄惨な姿で何度でも蘇る。それが地獄だ。そういった人間が類は友を呼ぶように集まり、お互いに永遠の殺し合いを始めることになる」
 僕は溜息をつく。
「マスターはまるで地獄を見てきたようだな。なんだか、自信ありげだ」
 マスターは煙草を灰皿でもみ消し、
「論理だよ。何も見てきたわけではない」と言った。
「でも、天国もおそらく似たようなものかもしれないね。善意の固まりみたいな人の想念って、すべてが美しく光り輝いているんだろうな」
「ああ、その通りだ」
 僕は水月を思い浮かべた。水月が死んだら、彼女の想念の中で、僕はどのような姿で蘇るのだろう?
「で、中有の世界の話はどうなった?」
 と、改めて僕が聞く。
「ああ、そうだったな」
 マスターが答える。
「中有の世界は死んだ瞬間の世界で、この現世と重なり合っている」
「だとすれば、今この瞬間も僕たちは現実世界と同時に、中有の世界にも存在しているわけか」と、僕が言う。
「確かにその通りだ。でも、肉体を通してしか知覚できない俺たちは、想念だけで成り立っている世界に触れることができない」
「それも不自由だな」と、僕が言う。
「あるいは、幸せかもしれない」
「でも、どうして想念の世界なんて、存在するのかな? マスターなら、何でも論理的に説明できるだろ?」
 マスターは苦笑いをしながら、「何でも説明できるわけではないさ。でも、考える。とことんまで考えてみるだけさ」と言った。
「で、どうなんだ?」
「あの世に行くには、この世の記憶や執着をすべて棄てなければならない。三途の川に身を浸せば、現世の記憶をすべて忘れることができるというのは、宗教的なメタファーだよ。聖人君主なら、何の執着もないから、瞬時に天に昇るだろうし、逆にこの世に未練や執着があったりしたら、中有の世界に長い間留まることになる。それが幽霊だ」
「あっ、そうか。だから、幽霊は僕たちの世界に存在していたとしても、手で触れることができないのか」
 と、僕は思わず大声を出した。
「一般に、人が執着を捨て去るには、平均四十九日かかるという。だから、大抵の宗教では四十九日頃に様々な儀式をすることになる」
 僕の胸には一つの疑念が浮かんできた。幼い子どもが死んだなら、まだ何の執着もないから一番救われやすいのではないか?
「マスター、一つ聞いてもいいかい? 幼い子どもが死んだら、どうなるんだい? まだ魂が汚れていないから、すぐに天国に行けるんだろう?」
 マスターはちょっと目をつぶって、何かを考えているようだった。そして、小さな溜息をついて、
「そうだな、難しい問題だ」と言った。
「仏教に面白い話がある。水子供養の話だ」
「あっ」と僕は声を上げた。
「子どもたちが賽の河原で小石を積み上げる話だろ? そうか、なんとなく分かったぞ」
「仏教の話はとてもリアリティがあって、しかも、残酷だ。実は、この世にもっとも執着を持っているのが、幼い子どもかもしれない。子どもは一人では生きていけない。自分が死んだことの自覚もない。だから、泣きながら、必死になって母親を捜し求めるんだ。それ故、三途の川をなかなか渡ることができない」
「そうか、だから、三途の川のこちら岸にある賽の河原に集まってきて、親のことを思って、泣きながら小石を積み上げる」
「そう。そして、鬼たちがそれを蹴散らしていく」
「親はひたすら念仏を唱え、成仏を願うしかないってわけか」
 僕はそう言って、すっかり冷めてしまった珈琲を口に流し込んだ。ざらついた感触が後に残った。
 僕は僕で何事かを考え、マスターはマスターで物思いにふけっているようだった。
 静かな時間が流れた。
 静寂を断ち切ったのは、僕の方だった。

「マスター、もう一つ聞いてもいいかい? 死んだら無だと思っている人は、どうなるんだい? マスターの論理からすると、その人は永遠に無の世界に閉じ込められることになるのかな」
「そうだなあ。たしかに、そいつは世界で最も不幸な男かもしれない。死んだら何もない、すべてが無だと思い込んでいる限り、その想念がそのまま具象化する」
「虚無の世界に閉じ込められてしまっているんだ」と、僕が言う。
 マスターはどんな表情をしているのだろう?
 カウンターの片隅で、僕に背を向け、ちょっとしたつまみを用意しているのか、僕はマスターの表情が気になって仕方がない。マスターの声だけが、マスターの口以外のどこからか聞こえてくる気がする。
 僕は死んだ父を思う。父は生前無神論者だった。それなら、父は今でも虚無の世界に閉じ込められているのではないだろうか。
「マスター、虚無の世界に置き去りにされた人間を、どうやって救い出せばいい?」
「簡単なことさ、その男の想念を変えればすむことだ。その男に死んだら無ではないと理解させることだ」
「でも、どうやって?」
 マスターの声が低い調子で響く。
「死んだら無だと思い込み、実際虚無の世界に置き去りにされた男は、ますます虚無の世界に確信を持つから、その想念を変えることなどできっこないだろう。仮に、神がその男を哀れに思い、何とか救ってやろうと現れたとしても、男は神の存在に気づくはずがない。なぜなら、神もその男の想念の中で、無の姿となって現れるからだ」
「だったら、救いようがないじゃないか」
 僕は思わず声を荒げた。
「救い?」
 マスターがこちらに振り向く。
「神は自ら助くるものを助く、だ。どうしようもないじゃないか」
「なんか、残酷だな」と、僕が呟く。
「想念を変えればいいさ」と、マスターが言う。
「えっ?」
「想念を変えれば、世界もまた同時に変わる」
 と、マスターが呪文のように言った。


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