火の山十七 第二章 魔王と魔性の女「少女が裸であなたのベットに横たわったなら」

 世の中はいったい何が起こるか、分からない。まさか、自分の部屋に一人で戻ってみると、ベッドの上で裸の少女が寝転がっているとは、夢にも思わなかった。

 小さな顔に目だけが異様に大きく、その目は強い光を放っていた。すらりと伸びた白い足が眩しく、手足の爪が長くて、鋭いのが印象的だった。髪の毛は肩までのショートカットで、綺麗に巻かれていた。唇は妙に薄かったが、横に広がっていて、艶やかだった。白く大きく、健康的な歯が印象的だった。

 一瞬、水月が僕を訪ねてきたのかと思ったが、そんなはずもなく、他に部屋に訪ねてくるような女性の心当たりもない。第一、全裸のまま、僕のベッドに寝転がっているなんて、娼婦か、それとも頭のおかしい女性しか考えられなかった。しかし、娼婦ならば、もっとお金持ちの男の部屋に潜り込むべきで、僕が目当てならば、完全に客の選定を間違えたとしか思えない。

 こんな状況を、万が一水月に見られたなら取り返しがつかない。僕は少々焦っていた。この事態をどう乗り越えたらいいのか、僕にはまったく心の備えがなく、途方に暮れるばかりだった。しかし、その一方、この少女に対して、好奇心を抑えることができなかった。少女の正体を確かめたかったし、特に美少女というわけではないが、妙に艶めかしく、小悪魔的だったのだ。

 少女は僕が突然部屋に入って来ても、特に驚いた様子はなく、僕の方をその大きな瞳でじっと見つめていた。瞼を半分閉じた時、少女の瞳に黄色い稲妻のような光を感じた。少女はベッドから起き上がり、裸の胸を隠そうともせずに、僕を見て微笑んだ。小ぶりの胸に、まだ蕾のようなピンクの乳首がついていた。

「君は、誰?」
 僕は震えた声で言った。
 少女は喋れないのか、黙ったままだった。
 僕の脳裏に住み着いた少女の幻影が肉体を持って現出したのだろうか。しかし、いくら記憶の引き出しを開けてみても、この少女についての情報はかけらもなかった。
 それとも夢の中でこの少女が現れたことがあるのだが、それが記憶の彼方に忘れ去られているだけなのだろうか。それにいったい何の目的で、裸のまま僕を待っていたのだろう。本当に僕を待っていたのか?
 もしかすると、部屋を間違えたのかと周囲を見回してみたが、確かめるまでもなく、ここは確実に自分の部屋だった。

 少女は小首を傾げて、僕を見つめるだけだった。そして、次の瞬間、いきなり立ち上がり、僕の胸の中に飛びこんできた。その身のこなしの早さは、予期しないものだった。僕は驚いて、後ずさりをした。しかし、少女はそうした僕の態度を気にかけることもなく、両腕を僕の首に回して、僕の頬に自分の顔をこすりつけてきた。引き締まった肢体は柔軟な筋肉を薄くて滑らかな皮膚で包み込んだような感じだった。

 心臓が止まるかと思った。
 少女の滑らかな肌の感触が僕の心をくすぐった。それは生まれて初めての感触で、僕は少女の髪の香りにも奇妙な刺激を感じていた。耳元に聞こえる、少女の甘い吐息も気になった。
 頭の中では必死でこの少女が誰なのかを思い出そうとしたり、その正体に思いを巡らせたりしてみたが、やはり脳裏には何一つ浮かぶことはなかった。僕のことを知っているらしいことは彼女の態度から明らかだが、誰だが分からない女性に抱きつかれているこの事態は、やはりあまり居心地にいいものではなかった。
 しかし、体の温もりが直に感じられ、少女の心臓の鼓動を聞いたような気がした。

 少女がいきなり僕の首筋をペロリとなめた。少し魚臭い匂いがした。僕は驚いて、反射的に少女の体を突き飛ばした。少女は驚いたように、目を大きく見開いた。
「洋でしょ?」
 少女の口から初めて言葉が漏れた。やはり事前に僕の情報を調べた上で、僕の部屋を訪ねてきたに違いなかった。何の目的なのか分からなかったが、僕は警戒心を解くことをしなかった。
 娼婦なのか、何らかの詐欺の手口なのか、または美人局なのか、その可能性まで考えたが、冷静に考えると、貧乏学生の僕からお金を奪い取ろうと考えるはずもない。
 しかし、慎重に距離を取り、いつでも次の行動を取れるように、心の準備をした。

 少女は気を取り直したらしく、唇を舐めながら、僕を訝しげに見た。
「どうしたの? 忘れたの?」
 少女がそう言って、鼻を鳴らしながら、再び僕に近づいて来ようとした。僕は少し後ずさりしながら、得体の知れない化け物かと思い、思わず身構えた。水月の次に、今度はこの少女に取り憑かれてしまったのか。
 しかし、少女は僕の警戒心をよそに、再び親しげに近寄ってきた。しなやかで、それでいて機敏な動作は、人間よりもむしろ肉食動物を思わせるようだった。その少女の態度には敵意は感じられなかった。
 僕と少女の立ち位置はいつの間にか逆転し、僕がベッド側、少女が僕の正面に立っていた。

 僕は警戒しながら、少女の全身を舐めるように見た。無駄な肉が一つもなく、すべての細胞がぎゅっと締まっているような、そんな肉体だった。今度この野性的な少女に飛びつかれたら、それに抵抗できる自信もなかった。むしろ、僅かにではあったが、この少女にもう一度抱きしめられてみたいという感覚がないわけではなかった。
 とにかく、裸のまま僕の部屋にいることは、道徳上決して許されることではない。万が一、誰かがこの部屋に入って来たなら、どう言い訳をしたらいいのだろう。
 僕はこの少女の扱いに困り果てていた。

「一つ質問してもいいかな?」
 僕は慎重に言葉を選んだつもりだった。
「いいわよ。何でもどうぞ」
 少女の口から、意外とまともな返答が返ってきたことに、僕は少し安心した。
「君は誰で、どうしてここにいるの?」
「それって、二つ質問しているのよ」と、少女が言った。
「確かに、そうだね。でも、まだ質問し足りない。どうして僕を知っているのか、なぜ、裸なのか?」
「それって、いっぺんに答えなければ駄目?」
「一つずつ、順番に答えてくれればいい。服はどこに脱いだ? それとも裸のままで電車に乗って、街を歩いて、ここまで着た? その間、誰かに見咎められかった? 警察に尋問されなかった?」

 少女はふふと笑い、「洋、本当に私が誰だか分からないの?」と言った。
 K大学の学生? 水月の友人? マスターの知り合い?
 頭の中で可能性を思い巡らせて呆然とした。僕は今まで何と狭い世界でしか生きてこなかったのだろうか。
 少女は首を横に振り、「洋、いつも一緒だったじゃない」と答えた。
「いつも一緒?」と、僕は思わず聞き返した。


「そうよ。覚えていないの? よく同じベッドで抱き合って寝たわ」
 僕はすっかり混乱していた。少女の表情を観察してみても、とても嘘をついているようには思えない。もしかすると、僕はもう一つの世界に生きていて、僕が知らないその世界こそが現実だとするならば、いったいここはどこだと考えればいいのだろう。
 世界は確実に変化しつつあるのだ。
 僕は無性にマスターに会いたくなった。マスターなら何らかの答の糸口を見つけてくれるに違いない。

「とにかく裸のままで、この部屋にいるのは困るよ。服を着て、部屋からすぐに出て欲しい」
「どうして?」
 少女が小首を傾げる。そして、不思議そうに僕を見つめた。
「どうしてって、僕は君のことをよく知らないし、裸の女性と同じ部屋にいるわけにはいかないだろ?」
 僕は至極常識的な意見を言ったつもりである。そして、相手が誰でもこの意見に対して、反論することはできないと思っていた。ところが、少女は思わぬことを言いだしたのだ。

「私、いつでも裸のままよ」
「えっ!」
「だから、これからもずっと裸のままだし、あんなヘンテコな布きれを纏う気なんてないわ」
 少女はそう言って、微笑んだ。

 少女は透明な水月に対して、どこか肉感的だった。体中の筋肉が絶えず作動し、いつでも瞬時に躍動させる雰囲気があった。それは女豹かなんかの動きを連想させた。僕の前に棒立ちになっているだけだったが、それでもどこか動的な気配を僕に与えた。この裸の女豹がいったいどうやって僕の部屋まで訪ねてきたのか。僕が何かを言いかけた時、突然、少女は僕の胸の中に飛びこんできた。僕はバランスを失って、ベッドの上に倒れてしまい、勢い少女は僕の上にのしかかる形となった。

「洋、私、今日からここに住むことに決めたわ」と、少女がはっきりと言った。僕の体の上で、吐息が顔にかかる距離から、そう言った。
「えっ!」
 次の瞬間、僕は言葉を失っていた。なぜなら、少女が突然、僕の唇に自分の口を押しつけてきたのだから。
 しかし、僕が今まで知っている口づけとは明らかに様相が異なっていた。少女は僕の唇の表面を、そのざらついた舌で隈無く舐め始めたのだ。何度も何度も執拗に、唇だけではなく、顔全体を舐め回し始めた。
 ざらざらした舌の感触は、くすぐったいというよりも痛かった。

 僕が思わず少女の体を押しのけた時、彼女は驚いたような眼で僕を見つめた。
「洋、どうしたの?」
「何か用件があるなら、改めて服を着て訪ねてくればいい」と、僕は突き放すように言った。
「えっ? ひどい」と、少女は目を大きく見開いた。
「ひどいのは、君の方だろ? 勝手に部屋に入り込んで、しかも裸のまま人のベッドの上いる。それにまだ撲の体の上に乗っかかったままだ」
「だって、あなたには私の面倒を見る義理があるもの」
「えっ!」
 僕は驚いて、暫く言葉を失った。

 僕はこの少女とどこで出会ったのだろうか。そして、なぜ少女の面倒を見る責任が僕にあるのか。僕はますます途方に暮れるばかりだった。しかし、この事態をとにかく回避しなければ、水月が戻ってきた時、彼女に何と説明したらいいのだろう。
「ここは僕の部屋だし、僕に君の面倒を見る義務はない」
 と、僕はきっぱりと断言した。
 少女は訝しげに小首を曲げ、「そうよね、洋はまだ子どもだから、動物保護法があることは知らないのね」と言った。

「えっ、子ども?」
 この少女の瞳には、僕が子どもの姿に映っているのだろうか?
 逆に、誰かが僕の想念の中で少女の姿に映っているのかと、ふと頭の中で浮かんだ。
「僕は立派な大人だし、動物保護法って、いったい何の話だ?」
 少女はゆっくりと僕の体から降り、改めて僕の顔を正面から見据えた。

「だって、飼い主は自分のペットを飼う義務があるでしょ」と囁いた。
「僕が飼い主?」
 僕が驚いて、思わず大声を出した。
「ソーニャよ、私、ソーニャ」
 と、少女が訴えるように言った。

 ソーニャ?
 僕はその名前にどこか聞き覚えがあった、なんだか懐かしい響きがする。遠くに残してきた記憶の箱をこじ開けるように、僕は懸命に数少ない過去の思い出を取り出してみた。
 そうだ、ソーニャは猫の名前だ。お母さんがドストエフスキーの「罪と罰」から取った、飼い猫の名前だ。でも、どうしてこの少女がそんな外国人の名前を名乗ったのか、まったく見当がつかなかった。
「洋、やっぱり洋でしょ?」
 と、少女が繰り返した。

 僕は訝しげに少女の顔を眺めた。黒くて、肩の上で巻上げた髪は、ソーニャという外国の女性の名前に似つかわしくない。小ぶりの乳房に、贅肉を削ぎ落とした、引き締まった肢体。
 少女は再び僕に音も立てずに近づき、膝の上に頬をこすりつけるような仕草をした。
「ソーニャ?」
「そうよ、思い出した? 本当に久しぶりね」 少女は僕の顔をじっと見つめた後、
「もし私を放り出したら、犯罪よ」と、鋭い口調で言った。

「洋はよく私の尻尾をひっぱたり、髭を掴んだりして、私を弄んだけど、随分大人になったものね」
 少女が悪戯っぽい表情で、僕に笑いかけた。
「あっ!」
 その瞬間、僕の脳裏に、一匹の飼い猫の姿が浮かんできた。
「やっと気づいたの。ソーニャ、猫のソーニャよ」
 僕は呆然として、裸の少女を見つめていた。確かに僕が幼い頃、家ではソーニャという雌猫を一匹飼っていた。しかし、なぜその猫が今になって、少女の姿で目の前に現れたのか、僕には理解できなかった。いや、とても常識では理解できるものではない。

「でも、どうしてここへ?」
 僕がおずおずとそう問いかけると、ソーニャはきっぱりと、「私にも分かるはずがないでしょ。気がついたら、ここにいたの」と言った。

 こうして僕はソーニャという少女、いや、少女の姿をした猫と一緒に暮らし始める羽目に陥ったのだ。

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