amazarashi「僕が死のうと思ったのは」

前にも書いたが自分は音楽番組は全く見ていない、もう何十年もチャートすら見ていないが、しかし例えばスマホをいじっているだけでも何が売れているのかはだいたい分かったりする、自分から情報を入れようとするわけではないけれど、自動的に情報が入って来てしまうのである。

それにしてもアイドルやダンスグループが異常に多い、自分が若い時にも存在していたし、別に存在していてもいいのだが、最近はあまりにも多い気がする。

そして自分は過去、主に日本、イギリス、アメリカのポップスやロックを聴きすぎていて、音源も沢山持っているので「これ以上新しいバンドを聴く必要はないだろう」とも思っていた、もはやどれもこれも同じだろうと、それがジャズやクラシックを聴こうと思った理由の一つでもあった。

そういうこともあり、最近若い人が聴いているポップスやロックにはあまり詳しくはない、noteに色々書いているが、かなり保守的な人間でもある。

ヨルシカ、ミセスグリーンアップル、キングギニュー、eve、マカロニえんぴつ…??分かりません(笑)

…がしかし自分のライブ配信に来てくれる(超)貴重な人がきっかけでamazarashiというバンドを知り「僕が死のうと思ったのは」を聴いたのだが、詩の世界感の危なさに惹きつけられた。

明らかに流行的なものと程遠い、大人数のダンスグループの明るい曲を歌ったものが多い現代では時代に逆行しているとさえ言える。

amazarasiを聴いて思ったのは初期の井上陽水や岡林信康、高田渡、森田童子などの70年代フォークだ。暗く、泥臭い、人生の悲しさを寂しさを歌っているが、amazarasiはさらにそれを全面に押し出しているような感じだった。

「僕が死のうと思ったのは、心が空っぽになったから」

人間日々生きていると後悔や失敗、場合によっては死にたくなるくらい嫌なこともあるかもしれない、勿論いいこともあるが…いや人生は良いことよりも悪いことの方が多いかもしれない。人間はそれでも生きなければならないのだろうか?こういった問いに答えはない、「考えないこと」が答えだったりする。

「終わりはどうせ酷いものさ」

と歌っているが、金持っていても、持っていなくても、偉くても、偉くなくても、人間いつかは皆んな死ぬのである、地球上の歴史の中で1人が生きる年月なんて殆どが100年以下で、死後1000年も経てば誰もあなたを覚えていないだろう。 

どんな金や地位があっても最後は酷い死に方をした人は沢山いると思うし、金持っていようが貧乏だろうが悩みは誰だってあるわけだし、人の人生なんてそう大差はない気がする。

「終わりはどうせ酷いものさ」というか、「終わりは誰でも同じ」だったりする。

「あなたのような人が生まれた世界が少し好きになったよ」

とはいえ世の中絶望だけではない、具体的に自分は何をしている時が楽しいのか、幸せは日常の些細なことだったりする、自分の内面に素直になれば、何に喜びを見出せるか、気付くと思う。

…始めからやりきれなさが募る曲長だが、最後に「期待している」と歌い、意外と「絶望」がテーマではなく、「希望」がテーマなのかもしれない、作曲した秋田さんのインタビューは読んだことがないので分かりませんが、自分は勝手にそう解釈したのだった。

そして更に思い出したのはブランキージェットシティの楽曲だ、ブランキー(浅井健一)の書く詩は、絶望的でありながら儚くそれでいて繊細、かつ文学的要素もあり、amazarashiと似ている部分はあるかもしれない。

自分が若い時ブランキージェットシティに入れ込んだ理由は流行的どころか90年代ではかなり浮いていたがサウンドも詩の世界感も凄いものがあった。「悪い人たち」「鉄の月」「不良の森」「脱落」「円を描く時」「ディズニーランドへ」「冬のセーター」…

ブランキーを初めて聴いた時の衝撃はちょっと言葉に表せないぐらいだった。

…しかしamazarashiはギター、ベース、ドラムが全面に出ているわけではなく、絶望的ではあるが、ブランキーのようにヒリヒリした感じはない、やはり70年代フォークに近い気がした。

シングルやアルバムもかなりリリースしており、他の曲はまだ聴いていないので判断が早すぎですが(間違っている部分もあるかもしれませんが)

時代に逆行しているなどと書いたが、再生回数やチャンネル登録者の数を見る限りかなり多くの人に聴かれているし、色々な人がカバーしているようなので時代と逆行も何もないのだが。

ごちゃごちゃ色々書きましたが「僕が死のうと思ったのは」という曲を聴く限り、面白い曲を作るバンドだな、と単純に思ったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?