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大人の「現代文」57……『こころ』読み進めます。

「暗い」とは?「倫理的」とは?


 それでは始めますね。高校生が『こころ』に読む「暗い倫理的教訓」とは何かです。

 言うまでもなく、回答は下の「先生と遺書」の中に語られるはずです。前回も指摘したように、先生は下の冒頭でそれを宣言しているからです。つまり「暗い」とは何か、「倫理」とは何かを、先生のあの膨大な遺書から読み取らねばならないということになります。

 少し脱線しますが、伝統的な現代文教科書では、この下の「先生と遺書」の、Kの告白から自殺までの部分の原文(つまりそれを「強いた」先生の言動)が載せられていて、これに対していろんな意見があるようですが、私の高校教師としての立場では、そういう掲載の仕方は基本穏当であり、何の違和感もありません。ただですね。前回私が強調した先生の「倫理宣言」の部分は、カットされているのが普通で、これに関しては、教科書立場とは異なり、「ここ」は載せなければならないと考えるのが私の立場です。

 で、話を進めますが、まず、生徒はシンプルに考えます。この「暗い」とは何を意味するかと言えば、どう考えても、「自殺」が絡むことでしょう。Kは自殺し先生も自殺に追い込まれることです。むろん主人公は先生ですから、(Kの自殺を踏まえて)なぜ先生は自殺を決意せざるをえないのか、ここが最大の疑問点になるわけですが……。もっとも、それ以前に、そもそも「自殺」に拒否反応を示す生徒もいます。どういう事情であれ、最終的に「自殺」というのは、ちょっとついていけないな、という感じです。私もその考えはよくわかりますので、「自殺」を強調しません。これは漱石のそれこそ文学的な「演出」と考え(すなわち一種の「比喩」と捉え)「死にたくなるほどの」自罰感を持つとはどういうことかと、変換します。 

 そうおさえると、先生の言う「暗い倫理的教訓」の意味がはっきりしてきます。すなわち、「人間はどういうときに死にたくなるほどの自罰感」という自己断罪の「倫理」感覚をもつのかとなります。
 
 次に「倫理」とは何かですが、ここで、以前紹介したスピーチの高校生の感覚が登場するのです。

 多くの高校生が、日々の生活の中で一番悩んでいることは、成績や勉強は当然あるものの、実は、友人関係であり、誰と一番気が合うか、誰といるとき一番心が安らぐか、誰が支えになるか、要するに自分にとって誰が一番大切な人かといった「人間関係」なんです。

 もちろん、そんなことは自分の関心事ではない、自分は自分、人は人というように、全て割り切る高校生も現代ではいます。しかし、だからといって、世界に自分一人で唯一絶対に生きていると自覚している生徒は稀でしょう。殆どの生徒は、自分を支える他人の存在を、深く意識しているものです。そして自分を一番強く支えてくれる「特に仲の良い友人」が特別な地位・位置を占めているのです。

 その特に仲の良い友人関係、すなわち、「親友」関係ほど、彼らが一番敏感になる関係性はないのです。

 すなわち「倫理」とは「親友関係の倫理」、が彼らに一番ピンとくるテーマなのです。で、その関心にピッタリ合うように実は「先生と遺書」は解読できるのです。


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