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大人の「現代文」68……『こころ』一般的理解を見てみます。

なんでもエゴイズムですませていいんですか?


  高校生用の参考書、便覧に『こころ』はこう説明されています。

     『こころ』は、『それから』以後追求してしてきた近代人のエゴイズ
   ムが絶望に至る過程を、漱石が描いて見せた作品。友人Kを裏切って
   現在の妻を得、Kを自殺に追いやった「先生」は、罪の意識を持ちな
   がら生きていたが、鎌倉で知り合って親しくなった青年「私」に遺書
   を残して自殺する。(新訂総合国語便覧 第一学習社 2024から引
   用)

 これが、『こころ』という作品への、最も普通の解釈と思います。ただ、こういう説明だけだと、生徒は納得しません。一人の女性を二人の若者(先生とK)が好きになり、先生が友人Kをエゴイスティックに裏切って(これは事実上「Kに言わずに出し抜いて」ということですが)婚約し、これをKが失恋を悲観して自殺してしまった……ことに、こんどは、勝利者の先生が自分のエゴイスティックな行動に「罪」の意識を持ち、自殺する話と読めるからです。

 要するに、Kの失恋死はまあ、(話としては)わかるとしても、先生の死は、今一理解できないとなるわけです。友人といえども、恋敵に勝利することが、かりに出し抜いたとしても、なぜエゴイズムという悪になるのか。あるいは恋の勝利者になることがエゴイズムなのか。 
 『羅生門』でも便覧では「人間の生きんがためのエゴイズムを暴いた」と説明されていることに、私はこのnoteで「ホントですか?」という記事を書きましたが、このエゴイズムということばは、本当に、決め台詞のように登場して、生徒を???の状態にします。

 「裏切る」とは何か。「絶望」とは何か。「罪」とは何に対する罪なのか。先生はなぜ死なねばならないと思ってるのか。こういうごく当然の疑問に対して、きちんと探求しないとこの「エゴイズム」という言葉の姿が見えてこないのです。

 ですので、私は、この万能エゴイズムという言葉に頼りません。これは終着ワードではなく、探求の入り口なのです。その第一歩が、前回の記事の、「卑怯」というワードと考えるということです。

       
    
      




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