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大人の「現代文」77……『こころ』房州旅行の失敗

Kとの「人間らしい」論争


 で、膨れ上がる嫉妬心にいかんともしがたい先生は、なんとかKの心を探るべく、房州旅行に連れ出しますが、失敗いたします。失敗は、Kのお嬢さんに対する本心を聞き出すことができなかったこと、そして、自分のお嬢さんへの恋心をKに宣言することができなかったことでした。『こころ』下の二十八から二十九に書かれていることを見てみましょう。

 先生の本心がこう書かれています。

    私は思いきって自分の心をKに打ち明けようとしました。もっとも
    これはその時に始まった訳でもなかったのです。旅に出ない前か
    ら、私にはそうした腹が出来ていたのですけれども、打ち明ける機
    会をつらまえる事も、その機会を作り出す事も、私の手際では旨く
    行かなかったのです。(下 二十九 ちくま文庫より)

    Kと私は何でも話し合える仲でした。偶には愛とか恋とか言う問題
    も、口に上らないではありませんでしたが、いつでも抽象的な理論
    に落ちてしまうだけでした。(同 二十九)

 でも、そういう話に行けば行けたであろうチャンスがなかったわけではありません。それは、旅行の途中、日蓮ゆかりの誕生寺を訪れた際のできごとでした。Kが日蓮について難しい議論しかけ、取り合わなかった先生に対して「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」といって、先生をやり込めた場面です。そこで、二人の間に「人間らしい」ということばで、応酬があったのです。

 先生は「精神的な向上心」を追求する「道の思想」に凝り固まっているKこそ、「人間らしくない」と反論したのです。先生の頭には、お嬢さんへの思いがありますから、具体的には「恋をすること」を念頭においたわけですが、KはまたKで「道の思想」に精進することこそ「人間らしい」ことと思っているわけですから議論がかみあいません。

    するとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないと云うのかと私に
    聞くのです。私は彼に告げました。ー君は人間らしいのだ。けれど
    も口の先では人間らしくないような事を云うのだ。また人間らしく
    ないように振る舞おうとするのだ。
     私がこう云った時、彼はただ自分の修養が足りないから、他には
    そう見えるのかもしれないと答えただけで、いっこう私を反駁しよ
    うとはしませんでした。(下 三十 同)

 「人間らしい」という言葉が、まるでジョーカーのように多義的に使われるのは現代でも同様で、これ注目のワードなので、あとで改めて取り上げたいと思いますが、とにかくここでは、先生の意図はKに全く通じず、お嬢さんを話題にするには至らなかったのです。で、結局この房州旅行でKのお嬢さんへの気持ちを確かめることはできませんでした。
 先生は、落ち着かぬ心のまま帰京しますが、下宿に戻ってから、先生にとっては衝撃的な事件が起きました。次回に……。 


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