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大人の「現代文」60……『こころ』親友という視点で思い出されるもの

『舞姫』の豊太郞と『こころ』の先生

 


皆さん「親友関係の倫理」ということばで何かおもいだされませんか?『舞姫』を読んでいるピュアーな生徒はすぐピンと来ます。『舞姫』の豊太郞です。豊太郞は親友相沢との間に「否とは言えない」絶対的な信頼関係をもっていましたよね?あるいは特定の「親友」に限らず、天方大臣に対して「己がじて生じたる人に」(突然何か依頼されたときに、その瞬間自分の答えがどういう結果になるか良くも量らず)「直ちにうべなふことあり」と言って、いわば「准親友?」扱いしていましたよね。

 ここは注意して欲しいのですが、豊太郞の場合は、「親友」概念は単に特定の誰彼を意味するのみではなく、天方大臣という上司に関しても「否とは言えない」という意味で広がるのです。つまり、天方大臣は、単なる身分的上下関係にとどまらず「自分が(確かな)信頼心を持つ人」な訳です。ここで「親友」概念はひろがるわけですね。要は、主人公にとって、絶対的な信頼関係を持てる人間がいて(普通は親友です)、その人との関係性が、小説を読む上でのキーポイントになるわけです。

 では『こころ』の場合はそれは誰か?言うまでもなく表面的には親友Kなわけです。奥さんではありません。『舞姫』の場合は豊太郞は相沢とエリスとの双方に「絶対信頼というこころの相互交通」が実質的にあってどちらか一つ選ばねばならない状況に陥って、解答が出せず「人事不省」に陥るわけですが、『こころ』では、奥さんは(建前的には「親友」以上の関係ですが)実質的にはそういう立場にはなりません。この点に関しては別の機会に論じますが、あくまでも親友Kとの関係性が焦点になるのです。

 では、その親友Kは先生に対してどう振る舞うかというと、これがまたこの話の特殊なところでK自身は、『舞姫』の相沢とは異なり、先生との「親友関係」にあまり重きを置いてはいないのです。一応先生とは「親友」関係ではありますが、親友関係を重視するのは先生の方で、K自身は独立独歩を旨として、先生の行為に甘えている状態なわけです。にもかかわらず先生は親友関係を貫こうと、ある意味一人舞台を演じるわけですが、その建前とホンネの間に深刻な分裂が生じて参ります。正に先生のこころのなかの、ある意味、先生のこころの中「だけでの」葛藤が、この『こころ』という小説の読解の大焦点……という読み方をしていきます。

 


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