大人の「現代文」102……『こころ』信じるということ
死の向こうに見えるもの
ある程度人生の年月を重ねてくると、結局、人間はその時代の感性の枠組みのなかで生きているんだなとふと思います。『こころ』の結末の先生の死が、恐らく現代人にあまり受け入れられないのも、その時代の感性が現代ではおよそ隔たったものだというところに拠っているのはいたしかたありません。ですが……。
いつぞや伊達政宗のお墓の瑞鳳殿を訪れた際、周りにずらりと並んだ殉死した家臣のお墓に(その数の多さに)思わず息を呑んだことがありました。20基近くあったでしょうか。政宗その人のお墓の立派さよりも、死後も主君に仕えつづけるその家臣たちの姿の異様さの方が私には衝撃的でした。そしてすでに何百年も前の事とはいえ、「個人」というものがを封殺されるその感性に、素直に違和感を禁じ得なかったのも事実でした。
さすがに先生は、主君に殉じることはしませんでした。自ら言うとおり、明治の精神に殉じるというのです。ここが現代人たる先生の、江戸時代人とちがうところです。ですが先生は、贖罪のために自らの命を差し出すのです。
政宗の臣下がどういう気持ちで命を差し出したかわかりません。ですが、少なくとも、自分の命よりも大切なものを信じていたのは確かでしょう。同様に先生も、自分の命よりも大切な何かを信じて、命を葬ったことも確かでしょう。忠誠のためであれ、自己断罪であれ、命と同等の大切なものは、時代を超えて存在しているはずです。
それは「信じる」という行為ではないでしょうか?時代の感性は常に揺らぎますが、人間の、信じるという行為の崇高さは、普遍なような気がするのです。