大人の「現代文」95……『こころ』策略で勝っても人間として負け
奥さんKに先生の婚約を話す。
数日後、ついに恐れていた瞬間が来ました。奥さんは当然Kが先生の婚約を知っているものと思い込んで、Kにその話をしたのでした。そしてまだKが何も知らなかったことに驚き、先生に、Kへ、婚約の話はしたかと尋ねました。先生がまだKに話していないと答えたとき、驚いた奥さんは、次のように先生を詰ったのです。
「道理でわたしが話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよく
ないじゃありませんか、平生あんなに親しくしている間柄だのに、
黙って知らん顔してしているのは」(第一学習社 現代文教科書)
奥さんの発言に先生は固まってしましいます。奥さんは、先生に問われるままに、そのときのKの様子を語って聞かせました。奥さんから一通りKの様子を聞いたあと先生の心情が語られますが、私は、ここに語られる先生の明晰な自己断罪に、漱石がこの作品を創作した意図が明確に表現されていると思っています。先生が、自分の「卑怯」を意識しなければならなかったのは、どういうことかという一つの明白な回答です。引用します。
奥さんの言うところを総合して考えてみると、Kはこの最後の打撃
を、最も落ち着いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さ
んと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかと
ただ一口言っただけだったそうです。しかし奥さんが、「あなたも
喜んでください」と述べたとき、彼は初めて奥さんの顔を見て微笑
をもらしながら「おめでとうございます」と言ったまま席を立った
そうです。そうして茶の間をの障子を開ける前に、また奥さんを振
り返って、「結婚はいつですか」と聞いたそうです。それから「何
かお祝いをあげたいが、私は金がないからあげることができませ
ん」と言ったそうです。奥さんの前に座っていた私は、その話を聞
いて胸が塞がるような苦しさをおぼえました。
勘定してみると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになりま
す。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかっ
たので、私は全くそれに気がつかずにいたのです。彼の超然とした
態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考えまし
た。彼と私を頭の中で並べてみると、彼のほうがはるかに立派にみ
えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」とい
う感じが私の胸に渦巻いて起こりました。私はそのときさぞKが私
を軽蔑していることだろうと思って、一人で顔を赤らめました。し
かし今さらKの前に出て、恥をかかせられるのは、私の自尊心にと
って大いな苦痛でした。
いかがでしょうか?先生は、なぜ軽蔑されたと思って顔を赤らめたのでしょうか。なぜKは敬服に値すべきと思ったのでしょうか。なぜKが自分よりはるかに立派と思ったのでしょうか。また「人間として負ける」とは一体何を意味するのでしょうか。
答えは次回にしましょう。
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