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天の道~真実の行方 9話

       フラッシュバック②

夜勤帯は当然、手薄で他を看ながら、それ以外はNICUに
付きっきりの看護をしていた由美が授乳室の瞳の元へ
血相を変えて駆け込んできた。

「野中先輩!大変!あの子・・今、糖水をあげたら
真っ黒になっちゃって……もう……恐ろしいわ」

こんな事態になる事が、予め予測出来ていたからこそ
搬送を囁いていたナース達……
案の状、その予測が現実のものとなり動きだした。
SpO2 の低下を確認すると共に由美へDrコールを依頼する瞳。

一刻も早い救急対応の体制に臨む為、その連絡は当直医
小早川医師、師長の順になされたが、後にこの順番が小早川の
怒りを買おうとは思いもよらぬ二人だった。
空いていた当直医は整形外科医だったが、一般状態を
見て貰うのに専門分野は関係ないはず……
小早川より先に診て貰えて、むしろ良かった……
急変でもしない限り、この順番はあり得ない事だった。

普通の医者なら一目瞭然に良し悪しを判断出来るほどのクランケを見るなり

「何故、こうなるまで放っておいたんだ!」と

叱られたことにカチンと来た瞳は小早川がまだ
到着していないのをいいことに、ありのままを話した。

「先生、この子は出生直後からSpO2 90%以下しかなかった子ですよ!
ナースの誰もが、搬送した方が良いって思ってました。
そんな子を私達は看させられていたんです!
小早川先生は診てくれなくて……指示は全て師長が行っていました」

「はい、、血糖チェックして、経鼻から糖水入れて、何もなかったら
次回、ミルクをいく予定でした。でも、糖水を入れたら
途端にサチが下がって……」

横から、由美が経過報告を始めた。
果してこの場に小早川が居たなら、瞳は今の言葉を口に出来ただろうか?
普段、反感を覚えたり、色んな事を心の中では叫んだりしながらも
その思いは決して態度や言葉として表に表すことは出来なかった。
長く、この病棟に席を置く大山順子を見習って、瞳も又
当たらず触らずで接してきていたから……

そうする事で何事も起きない平穏さを保ってきてたのだが
小早川の威圧的な言葉の暴力によって、萎縮された心が瞳の中にも宿り
口が開けない現実は、こういう形で医療現場の問題点を浮き彫りにした。

現に搬送の件を小早川に押すことの出来ない師長。
搬送が正しいとしながらも、そのくせ自分が出ようとはしないスタッフ達。
只々……小早川に逆らうことに繋がるとの、躊躇いに他ならない
哀れな現実があった。
小早川の存在そのものが『悪』だと思った瞬間、その『悪』が到着した。

「何故、真っ先にワシに連絡しなかったのか!?ワシには出来ないと思ったのか!?」

開口一番の言葉を投げつけた。
当直医の手前、さも待機していたと言わんばかりの体裁を整えるセリフ。
当直医の出した指示に手を動かしながら

「来てすぐにこれかよ!こんな時に迄お前はそう言う事を言うしか能がないのかよ!」

無性に腹が立ち、無視する瞳が見たものは、鬼のような形相で由美を睨みつけている小早川の姿だった。

「何してんのよ!そんな事やってる場合じゃないでしょう?
早く動けよ……大体、口を動かすより先に、今は手を動かせって」

勿論、口に出しては言えないが、腹の中ではこんな風にやりとりをして
ストレスのバランスを保っていると自覚している瞳と違って
由美はどうだろう。
きっと、小早川の発する言葉は矢の如く、そのひとつひとつが
真っすぐに胸に突き刺さっているに違いない。
小早川が小児科を引き継ぐと断言したときに購入された
レスピレーター(人口呼吸器)の初めての出番が来たようだ。

もし仮に小児科医が在籍していたなら、ここまで陥る事態は未然に防げていた筈である。これ(人口呼吸器)をやったからとて、後の経過処置も的確に
やれるかどうか……出来なければ何の意味も持たない。
第一ここは、そこまでの集中治療を行うレベルではなく、設備も整ってはいない。

治療の必要あらば、これまでは小児科医の判断によって、専門機関への搬送が取られて来ていた。しかし、今はその頼りになる小児科医はいない。
それに代わるのは、過去の栄光を引きずり、未だにどっぷりと浸かって
いるかのような独裁行為を続けている『ボス』。

プライド高い彼の辞書に搬送の文字は存在しないのだろう。
その人間性は、もはや医者を通り越し……命を扱う神聖な現場に
ふさわしくはない人物……と瞳は考え始めている。

「挿管ですね……」
当直医の牟田が小早川を促した。
瞳が部署異動でこの病棟に来てから、やがて1年が経とうとしているが
これまで小児科医在籍中の時でさへ、なされなかった光景が
今まさに行われようとしていた。しかも、それは、かつて

「取り上げるまでが自分の仕事」と自ら語っていた、新生児に関しては、現時点でも明らかに不慣れと思われる、小早川の手によって、である。
自己評価では高いレベルにある人物の腕の見せ所、といきたいが、挿管カニューレの気管内への挿入は一度でスムーズに入る事はなく、何度目かの試みの末、ようやく気道が確保された。

だが確かに、この実技は一度で入らない例も珍しくはない。
直ちにアンビューにて酸素が送られ、ドクター二人によってスティト(聴診器)を使い、正しい位置に入っているかの確認がされた。
やっと、この子にふさわしい処置がなされたかのように見えたが
レスピレーターの接続は施されず、相変わらずアンビューにて
酸素を送り続ける中……心電図モニターの波形が止まった。

処置が遅すぎた?
いや、、処置に耐えうるだけの体力も、もはや残されていなかったのだろうか?
「どうか・・・動いて!」
瞳と由美の交代による心臓マッサージは必死になって続けられたが
その時間、一時間余り2時間近くに及んだ。
消えた命よ!再び戻って来て!の願いは、小早川とて同じであり
その間、誰ひとり手を休める者もなく、蘇生法が行われたが
小さな心臓が再び動く事は絶望的に感じられ、皆の表情に陰りも
見え始めたその時、瞳はある事に気づいた。

アンビューにて酸素が送られるその度に、腹部が膨らむ現象が
起こっている。それは、気管内挿管が正しくない位置に入っている
場合に起こる確認事項となるべき症状と見て間違いない。

「え?これって……食道に入ってる?」
呼吸機能の肺を利用する挿管は、手技の際、安易に食道へ入る事がままある。だからこそ段階的に挿管後の位置確認は重要であり、現に今回も、二人の医師の聴診によって、その過程は瞳の目の前で確かに行われた。

だとしたら、、聴診ミス?固定の緩み?分からない、どういう事?
他の人は気づいているのだろうか?
疑問に満ちた視線の先で、由美がとうに気づいている事を、その様子から窺い知る事が出来た。
顔を見合わせて、どちらかが言わんとしたその時
「仕方がない……」
牟田医師から中止が告げられた。

今更、入れ替えたとて明らかに不可能である事は重々承知の上……由美と瞳も観念し言葉を飲み込んだ。
結果的にいくら続けても無駄だったと言える食道へ入った挿管は
いつから生じていたのだろう? 医師達の聴診確認で鵜呑みにし、観察を怠ってしまっていた……
もっと早くに気づいていれば、最悪の事態は回避できていたのかな?

ベターな状態で臨めなかった反省が、終わってしまったページを巻き返そうとする。
もうよそう・・・瞳はその思いを振り切った。
全ては終わってしまったのだ。

全員で合掌の後、痛々しい小さな身体からは、繋がっていた沢山のチューブが取り除かれ、片付けに取り掛かっていた瞳の耳に、医師達の会話が聞こえてきた。

「ナース達が言ってましたが、この子は最初からサーチュレーションが
低かったそうですね?何でも90以下しかなかったとか……」

瞳から仕入れた情報を、小早川に問いただしている牟田医師の声。
瞳の喋ったこの件は、今後どういった展開を迎えることになるのだろう。










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