2020/09/04

起きた。今朝はバターチキンカレー。先日の日記で申し上げたとおり、レトルトカレータワーを設立しておいた。今回のバターチキンカレーはその先鋒を務めた。おいしかった。

蓄えは十分ある。翌、火曜日までの朝食は足りる。さらに土日の夕ご飯がカレーでもまだ大丈夫だ。朝ごはんを食べている最中に、急に大雨と雷がやってきてあまりのショックに寝込んだ。もちろん、ただ二度寝しただけである。各種マシンへの充電コードは抜いておいた。

積みゲーが「1」になった。しかし、物を積むのためには個数が2つ以上なくてはならない気がする。同様に1人待ちの状態を行列や渋滞と言うだろうかとも改めて考えたい。その1人が凶悪な粘り腰を見せるネゴシエータだったらそうかもしれない。

一方で積ん読はまだまだある。一時期減ったがまたにわかに増えてきた。特にあてなく本屋に行き、自分がやりたかったの投射物としての本を探す活動を「欲望の物質化」と読んでいる。希望でも指向でもいい。積ん読が増えているときは連想先の増えているときだ。さておき、辞書が1冊残ったら積ん読だろうか? 辞書は通読を意図していないのだから積ん読ではないだろう。

積みゲー・積ん読を減らせないのは突き詰めれば、購入速度と消費速度の不均衡にある。特に、どちらも「捨てにくい」という問題がある。ゲームはダウンロードが主流になって以来、プラットフォームのアカウントと紐付けられているから、遊ばないといつまでも論理的に残り続ける。一方、本は、一般に読書家は本を愛しすぎているので、本を売ったり捨てたりすることに抵抗が大きいことが多い。

僕が今回、積みゲーを「1」に減らすことができた最大の原因は、「過去に買ったもののやらなかったゲームを (本当にやりたかった数本を残して) プラットフォームのアカウントから削除した」からである。このアカウントから削除する行為には「返品」という名前がついているのだが、特にお金が戻ってくるわけではない。後でやりたくなったら、再び購入する必要がある。一見、経済的にはまったく得をしていない。

ただ「積んでるから急いで遊ばなきゃ……」みたいな気持ちが出てしまうと、それはせっかくの楽しみを労働にしてしまっているから、長期的に見て損をしている可能性がある。「様々な動機があって、手元に購入済みのゲームを集まってしまったのだけれども、集めて触って眺めて結果、このゲームをやるのが最もいいと分かったので、残りのゲームは無に返し、その分、圧縮された楽しみのゲームを味わいます」どうだろうか。

一方、本で同じことをしようとしても、再度手に入れることが難しいものが多かったりするので、無に返すことに対して強い抵抗が生まれがちである……僕の場合は、未読の本ばかり集めた本棚をつくって、仮想的な「積ん読図書館」と呼んでおき、そこから5冊だけ借りて読めるようにしている。そして、買って2年経って読まなかったら、強制的に自炊してPDFにするというルールにしてる。

こうしてPDF化された本が再度読まれることはめったにないのだが、捨てたり売ったりすることに罪悪感がある場合の、別の「葬送法」としては機能している。

そんな感じで、不意に積年たまった○○との付き合い方みたいな話をしてしまった。この話は積ん読・積みゲー以外にも抽象化できるかもしれない。例えば多くの人が、積み職歴や積み劣等感のようなもので困っていないか?

- 睡眠時間 (3-11) 8h
- 筋トレ:下半身コース+ワンダーコア(2倍)

夜はしゃぶしゃぶだったので、筋トレを2倍やった。

(2020/09/05 へ続く)

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