2020/05/27

起きた。今日はタイグリーンカレーのレトルト。春の健康カレー週間である。春のなんとか週間といっても、うっかり速度の出しやすい直線の茂みでスピードガンを構えている公務員の方が増えるわけではない。巡航速度、食欲の流れに沿った速度で食べれば盤石である。

昨日は「どっぷり疲れた」で覆い尽くされていたけど、今日は疲れを対話的(interactive)に扱うところまでは戻せた。僕は自分の負けと対話する、とかあるいは負けを引き受けるみたい言い回しをすることがある。この概念をお伝えするのは難しい。最近、若い人にもVtuberとかいう人たちが麻雀をやる影響で再び麻雀をやる流れがあるらしい。麻雀があると負けを引き受ける概念の話がしやすいのでそうする。

私も大昔に麻雀というものを嗜んでいた。現実の他人が絡むゲームなのでエピソードを具体的に話すことは無い。(この日記のレギュレーションによる) 1. 四槓子以外の役満は全て出したことがある。2. オンライン麻雀ゲームのデバッガをやって万を超える局の様子を見届けたことがある。3. ここ15年ほどは全くやっていない。くらいの情報にとどめておく。

本屋さんに行くと、麻雀の本というのは将棋や囲碁のコーナーにある。おっさんが数人集まって対面で行うくらいにまで、抽象化されると同じカテゴリになるのかも知れない。麻雀の超雑な説明を、将棋や囲碁と比べる形でやる。将棋や囲碁は実力のゲームである。運の介在する余地は殆どない。一方、麻雀は実力と運のゲームである。

麻雀で勝って反省する人はあまりいない。実力で勝ったと思うからだ。また、麻雀で負けて反省する人もあまりいない。運で負けたと思うからだ。ホントは、そんなわけはなく「たまたまの勝利」や「必然の敗北」があっても、人間は自然状態でそれを無視するよう都合よく解釈を変えがちである。

僕の言いたい負けを引き受けるというのは、一見、不幸で起こったかも知れない負けを、実力と運の合成物としてまず捉えて、どれがどうだったのかの解像度を上げて理解を深める行為、という風にいえる。

例えば僕はいま疲れている。疲れたなぁ。疲れて仕事ができない。やむを得ない。が、やむを得ないなりに何ならできるのか。0でいいのか。1ならできるか。人に助けを求めれば解決しないか。疲れないよう指導を受けてみないか。noteやTwitterは休んだ方がいいのでは。逆にやったほうが張りがあるのか。などなど。

これが将棋や囲碁なら、負けたら必ず反省するわけで、何か反省の義務のようなものが発生すらしているのですけど、麻雀では反省の義務は発生しにくい構造になっているので、だからあえて負けを引き受けるクセをつけておく。現実の出来事は程度の差はあれ、実力と運の両方が絡むことが多い。麻雀のような実力と運の勝敗に与える要素が拮抗したゲームをひとつ基準としておくと、現実で何らかの敗北と対峙した際に、何なら具体的に対処可能か、何割可能か、などの仮説をたてることができる。そうして精査した結果、やはりこれについては9割は運で負けたと判断してたら、結果それで全く構わない。解釈に主体性があるか、という話につきる。

過剰に凹むことも、過剰に憤ることもない自分をつくる。非常に理不尽な出来事にあった人が、自分にもできたことがあったのではと過剰に自分を責めることがあるという。それはあなたのせいではない。いまはお辛いかも知れない、積極的に人の力を借りるべきときだろう。そして、やがて、自活できるようになったら、願わくば日々の生活の中から負けを引き受けることを鍛え、実力(コントロール可能な領域)と運(コントロール不能な領域)を峻別する訓練を積み、自らの意思で「やはり、あれはコントロール不能な領域にあった」と、強く結論づけてほしい。

- 英単語1000words 
- タケバキの写経 0P
- ヒザ曲げ立位体前屈 2min
- 睡眠 1-9, 11-13 (10h)

結局、なんか日記なのに自分のことを言っていない。抽象的には、今日は昨日から疲労を引きずっていたものの、できるだけのことをやって明日を迎える準備をした、という趣旨のことを行った。明日は山だ。

(2020/05/28 へ続く)

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