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「できないこと」は、お互い様では?

この投稿は、自分なりの「普通」な人びとへの応答です。

僕ができないことは、認める。僕が知らないことも、認める。僕が気づけないことも、知っている。僕がわからないことも、認める。

だけど、それってお互い様では?だってあなたも僕の気持ちなんてわからないでしょう? というのが、この投稿のおはなしです。

「できない」ことって、そんなにわるいこと?

その前に、僕がよく言及する「できない」という言葉について定義しようと思います。「できない」という言葉は、きっと多様に定義しうるでしょう。しかし、僕は「できない」という言葉を、「ネガティブ・ケイパビリティ」(negative capability)という考えを手がかりにして考えています。このことについて、レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』(Men Explain Things to Me, 2014)の記述から見てみましょう。

 私たちにとっての希望の礎は、次になにかが起こるのかわからないということにある。そして、起こりそうにないことや連想しがたいことが起こるのは、実は日常茶飯事だということにも。教科書には出てこない世界の歴史を見れば、熱意を持った個人や大衆うんどうが歴史をかたちづくることができるし、また実際にそうであったとわかる。いつどのようにして私たちが勝利を収めるのか、勝つまでに一体どれだけの時間がかかるのかは、予測不可能だとしても。
 絶望とは確信の一形態だ。未来はいまとはほとんど変わらないが、より悪い方向性に向かうに違いない、という確信の。ゴンザレスの印象的なフレーズを借りるなら、絶望とは確かな未来の記憶にほかならない。同様に楽観主義も、何が起きるかということについての確信に満ちている。どちらの立場も、人を行動に向かわせはしない。翻って希望とは、そんな記憶など存在しないし、現実は必ずしも自分の計画通りにはいかないかもしれないと理解することだ。何かを創造する能力と同じように、希望はロマン派の詩人ジョン・キーツが「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼んだものから生まれうる物だ。
(レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』より引用)

「ネガティブ・ケイパビリティ」を改めて説明しなおすと、それは「わからない」というまま立ち止まること、「わかる」ことを保留することだと、僕は考えています。この作業は、きちんとわかるために考えなおすというような「批判的思考」や、常識を考えなおし概念を理解しなおすというような「反省的思考」とは、少し違います。「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「わからない」をそのままにすることなのです。あるいは、「わからない自分」をそのままにしておくことでもあります。

え、それってダメじゃない? わからないことを開きなおっているだけでは? そのままでは成長しないのでは? そう思われるかもしれません。

その考えは、もっともです。だからこそ、ちょっと立ち止まってほしい。いや、上のような言葉を出すことを、立ち止まってほしいということなんです。なぜなら、「『できない』『わからない』ということは、よくないことである」という信念を、よりいっそう強くしてしまうから。これで全ての人が強くなれるなら、まだいい。だけど、そうではない。それで苦しい人だっているわけです。

「ネガティブ・ケイパビリティ」は、「できる」「わかる」という確定的な世界観を嫌います。むしろ、「できない」「わからない」に立ち止まりつづけます。それこそが、他者への、世界への敬意になるから。僕はそのような希望を、「できない」に込めています。

「できない」ことはお互い様、にしてほしい

しかし、この態度はとても難しい。なぜなら、「わからない」に立ち止まることは、いまいる世界がまるで頼りないものになるから。仕事の世界では、さらにそれが「悪」になるようですね(少なくとも、僕の職場ではそうみたいです)。

ここで、先の引用にある「絶望」「楽観主義」について考えてみましょう。ソルニットによれば、「絶望」と「楽観主義」は、確信の一形態であるそうです。つまり、「絶望」と「楽観主義」は、その世界を確かなものにしてくれるものだということです。それは、一見するととてもいいことです。しかし、ソルニットはつづけてこう書いていました。「人を行動に向かわせはしない」と。そう、「できる」「わかる」は、世界を変えないのです。「できる」「わかる」になったとたん、何も変わらなくなるのです。

ここからは、僕自身の思いです。

確かに、僕は「できない」「わからない」です。だからこそ、僕はあなたに敬意を持てる。仮に僕があなたよりある特定の分野で知識や知恵を持ち合わせていたとします。それでも、あなたはあなたしか持たない何かがある。僕は、そのあなたの持つものに敬意を持つ。僕は、あなたの「できない」「わからない」はわからないし、あなたの「できる」「わかる」もわからない。だからこそあなたを尊重する。

これは、僕自身が発達障害を持つこと、うつ病であること、そしてその帰結として生じた僕自身がマイノリティであること、このことと不可分です。僕は「普通」ではない。だから、僕は「普通」であることを羨ましいと思うし、尊敬する。なぜなら、僕は「普通」がわからないから。「わからない」からこそ、敬意を持てるのです。

それは、いわゆる「できる」「わかる」人だって同じはずです。僕の「できる」「できない」はわからないし、「できる」「わかる」もわからないはずだ。表面上、たまたま結果になっている「できない」「わからない」だけを取り上げて、それを論う、果てはそれを「報告」という名で周りに話すのは、いささか経緯に欠けるなと思います。「できる」「できない」だけで人を判断することは、ちょっと早急すぎるのではないでしょうか。

そう、「できない」「わからない」のは、お互い様なはずなのです。お互いにわからない。だからこそ、わかりあおうとする。そこから、よい世界を作ろうと協力することもできる。「できる」「わかる」だけでは、このよい世界を作ることに、どうしても移れない。少なくとも、僕は入ることはできない。「できる」「わかる」世界は、とっても不寛容なのです。とってもユートピアであり、それはすなわちディストピアなのです。

「できない」「わからない」に立ち止まることは、寛容であること、希望を持ちつづけること、ユートピアという名前で呼ばれるディストピアに足を踏み入れないこと、そんなことなのです。「できない」「わからない」は、難しい。だけど、そこに立ち止まらないと、どんどん堕ちていくのです。

だから、「できないはお互い様」ってことに、しておきませんか?

最後に、ソルニットの文章をもう一度引用します。

軽量可能性の暴力は、ひとつには言葉や言説が、より複雑で微妙で流動的な現象を描写しようとして失敗することにあり、また意見形成や意思決定を行う人々が、定義しがたいものを理解し価値を見定めることができないことにもある。名づけたり描写したりできないものの価値を見定めるのは難しく、ときには不可能ですらある。だからこそ名づけること、描写することは、資本主義と消費主義の現状に対する反乱における本質的な営みなのだ。究極的には、地球環境の破壊の原因の一端は、いやもしかするとその多くは、想像力の欠如や、本当に大切なものを数えることはできない会計システムによって、想像力の重要性が見えなくなっていることにあるのかもしれない。この破壊に対する反乱は、想像力による反乱だ。それが称えるのは、白黒つけない微妙さであり、金では買えず、大企業が意のままに操ることのできない歓びだ。意味の消費者より生産者であること、ゆっくりとさまよい歩き、まわり道を選ぶことだ。探究心と、超自然的な力と、不確かさだ。
(レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』より引用)


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