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Elvis Presley – From Elvis in Memphis


また『カリオストロの城』か……。そう眉を顰める人は、おそらくこの作品を見たことがない人か、ただ宮崎アレルギー患者か、あるいは反社嫌いか、そのいずれかではないか。日本のディープサウスに暮らすしがない農夫は、やっぱりいいねぇ、などと言いながら飽くことなく見てしまう。同作は今やすっかり、『男はつらいよ』レベルの国民的コンテンツだ。

この作品が、今もなお、多くの人を魅了してやまないのは、ハイクオリティな作画、映画的表現等々はもちろんだが、それ以上に、単純な勧善懲悪ではない、清濁、あるいは善悪の混沌の中から立ち上がる真実らしきものが描かれているからではないか。そもそもルパンは盗人である。悪党が大悪党をやっつけてるだけで、画面に出てくるのはだいたい悪党だ。しかし、ルパンには盗人の矜持ともいうべき仁義がある。

今日的には反社に括られる寅さんにも、哲学というほど大袈裟なものではないかもしれないが、揺るぎない信念がある。それは古来、人を人たらしめてきた森羅万象への畏怖であり、人間がいかにちっぽけな存在であるかを知っている者なりの生きる知恵であり、もしかするとそれを人情と呼んでいいのかもしれない。「いったい、そりゃどういう了見だい?」と、真顔ですごむ寅さんが徹底して抗うのは、そうした人の道に外れた価値観なのだ。

だから、戦後教育、あるいはグローバリズム、大量消費主義、あるいは環境ヤクザともいうべきNGO、その他圧力団体が跋扈する時代の価値観に洗脳され、慎ましさをどこかに置き忘れてきてしまった我々は、お天道様の下をにこやかに歩く寅さんを見て、己を恥じるのである。

人間は己の生存のために、人間以外の生命を奪い続けなければならない罪深き存在である。それは人間だけではない。あらゆる生は死によって支えられているのだ。そう、「いのちは闇の中にまたたく光」なのだ。

宮崎駿という作家が抗っていたのもまた、口では多様性や寛容を主張しながら他者を自らのイデオロギーに染め上げようとする全体主義的な自称リベラルとか、そんな輩が跋扈する大衆社会だったはず。

僕が愛好するロックという音楽も、本来はこうした価値観への対抗として誕生したものだったが、勃興から成熟、そして産業化への道--あくまでメインストリームでの話だが--をたどったロックというカウンターカルチャーは、いつしか権威主義的なファンによって、硬直し、衰退していった、ように見える。

「ロックは反権力であるべきだ」というテーゼそのものに疑念を抱くべきではあるが、それよりも大事なことは、ロックがそもそも、ホワイトとブラックの間に真実らしきものを見出すことで、既成の価値観から逸脱を目指した音楽だったということ。連休中に遅ればせながら鑑賞した映画『エルヴィス』を見て、そんなことを考えた。エルヴィスの場合は、清濁合わせ飲みすぎたきらいもあるけど。

映画自体は、エルヴィスの伝記映画としては及第点だろうが、視聴途中からトム・ハンクス演じるパーカー大佐が主人公の映画として見ていたような気がする。やっぱすごいなトム・ハンクス。

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