実は「お前が言うなや!」しかない事実
成功哲学が無責任という話から、色んな切り口で自己啓発?みたいなことを書いていこうと思います。
今回は標題のとおり「お前が言うなや」について…
元となった記事をまだ見ていない方は、こちらをどうぞ↓
出来てないくせに、お前が偉そうなこと言うなや!って話
このセリフよく聞きますよね?
どんなときに使われるかと言うと、極端な話こういうことです。
これが世に言う「(フレディ)お前が言うなや!」です。
心当たりありませんか?
つまり、自分のことを棚に上げて人に意見する奴らを嫌うケースですね。
正しいことを発言しているんですが、当の本人が出来ていないと人々は嫌悪します。
出来ていない人に注意されると、めっちゃ腹立つ件について
「出来ていない人」に「出来ていないこと」を注意されるとムカムカするものです。
果たして、この苛立ちはどこからやってくるのでしょうか?
そして「エラそうなこと言うなや!」ってなります。
でも考えてみてください。エラそう?
エライは偉い、偉大に見えるんでしょうか?
どっかの偉い人が
「フレディは偉大だ。何故なら自ら危ない爪を持っているのに、少し長いだけの爪を注意するのだから。」
と、評価しているのであれば腹が立つかもしれません。
しかし、この場合誰も評価していませんよね。
自らを大きく見せているだけなのに、何故腹が立つのでしょうか?
出来ている人が言うのと何が違うのか?
一方で、365日深爪で清潔な人に言われると受け取る印象は変わってきます。
清潔な人:あなた!爪が長くて不潔ですわよ!私のように清潔になさい。
自分:申し訳ございません!すぐに切ります!
出来ている人に言われると、納得しますよね。
これが世に言う「何も言い返せない。」です。
このクダリ何回やんねん!これが何になんの?
爪が長いことを注意する人と注意される人のやり取りは、一体何のために存在するのか?
それは、言われた「自分」だけのために存在するドラマ。
実はこれ、どちらも自分にとっては同じ現象なんです。
一体どういうことなのか?順を追って説明していきましょう。
怒りの底にあるトラウマ物語
人が怒る時には、必ずその中に深い感情が眠っています。
それは「悲しみ」や「不安」等の感情で表現できるもので、もっと言えば自分に対するトラウマ的なものです。
例えばこんなストーリー
つまり怒る行為は、何か本質的なものを隠そうとしているとも言えます。
親が子供に対して、感情的に怒るのと愛情を持って叱るの違いをイメージしてもらうと分かりやすいかもしれません。
種類が違うだけで、どちらも気持ちに響いている
フレディに注意されると、このトラウマが蘇り心がざわつく
清潔な人に注意されると、このトラウマが蘇り心がざわつく
ここは同じ
でも、ここから反応が違ってきます。
フレディに注意されると、心がざわつく→イライラする
清潔な人に注意されると、心がざわつく→萎縮する
ここで重要なのは後の反応ではなく、最初に受け取った感情そのものを見るということなんです。
「お前が言うなや」
この感情になる前に起こっている現象を捉えることができるかどうか?
これによって注意を素直に受け取れるかどうか?が変わってきます。
そんな奴のアドバイスいらんし
ですよね。
そもそも、爪長いとか不潔とか言われる筋合いないし、そんな爪の長い奴に言われても納得絶対できん!
そう、その通りで注意やアドバイスを聞く必要はありません。
そして誰もフレディの注意を聞け!ってあなたを強制していません。
なのに何故かあなたは心がざわついている。
何故なんでしょうか?
それは、自分でフレディの忠告が重要であると認めちゃっているからなんです。
問題の本質
今回の話のゴールは、爪を短くして清潔にすることではありません。
実は言われて心がざわついている「この方」は、爪をきれいにしています。
それにも関わらず、自分より不潔な爪を持つフレディに注意されて心がざわついているんです。
ここには、色んな感情が混沌としていることでしょう。
これらのトラウマが解消していれば、誰に言われようとも「聞く耳は持たない」もしくは「素直に注意を受け入れる」行為になるはずです。
つまり「出来てないくせに、お前が偉そうなこと言うなや!」って時点で、自分にとって重要な項目として認めているってロジックになります。
いやー納得いきませんね。笑