「我思う故に我あり」は不正確であるという話

デカルトのあまりにも有名な「我思う故に我あり」というフレーズ。今回はこれが不正確なのではないかというお話です。前提として、私が言いたいのはそもそも翻訳として不正確ということではなく、原理的・哲学的に考えるとそうであるという話です。あと以下の指摘は周知の事実かも知れませんが、悪しからず。さて、このフレーズ、正確なものの言い方をするなら「我思う故に我の存在あり」と言えそうです。なぜか?確かに思考している私が存在していることは否定できないでしょう。ですが、私の意識以外の部分、肉体が存在しているとまでは言えないでしょう。たとえば、自分が知覚している感じているものは実のところ、脳に機械が接続されていて、その機械から受け取っているとすればどうでしょうか?これは水槽の脳と呼ばれる思考実験なのですが、ここでは「ある」と思っている身体は存在していません。じゃあ、「我あり」とまでは言えないよねということです。ですが、現代にデカルトがいて、私の話をここまで聞いていたならこういうでしょう。「心こそが我であって、箱にすぎない身体は考慮すべきに値しない」と。これがいわゆる心身二元論なわけですが、近代以降、この主張は長らく批判されてきています。たとえば、メルロ=ポンティ。彼は幻影肢という現象に着目し、身体の実存における重要性に着目しました。幻影肢とは負傷や疾病によって四肢の一部またはその全てを失った人が、元々四肢があった部分に痛みや痒みを知覚するという現象です。(彼の若い頃にWWⅡが起き、その影響で四肢を失う人、幻影肢を感じる人が増えたとされています。)ここから、心(意識)が人を支配しているのではなく、時に逆転することすらありうることを示唆しています。(そもそも心や身体の二つに綺麗に分けるようとすることにも疑問が残ります。)ですので、身体も「私」を形作る重要な要素であると言えるわけです。ならば、「我あり」とまで断言するデカルトは間違っているのではなかろうかと。正しく言えることは「私」が存在していることまででしょう。ここまでが本編です。以下は本編からの哲学論的な話に移行します。
何度も繰り返しますが、こんなことは当たり前だと感じる人もいるかも知れません。ですが、「当たり前」を形成することは哲学のありようからはかけ離れています。哲学ではどれだけ常識とされていることでも、何回でも蒸し返して議論しても良いわけです。

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