母のこと
30を過ぎるまで、母のことをわが子にあまり興味のない人だとおもっていた。
怒ったりはしないのだが、滅多に笑いもしなかったから「ハナちゃんのお母さんクールだね」的なことは、物心ついたころから大人になるまで何十回も言われた。クラスの男子に「おまえの母ちゃん、(銀河鉄道777の)メーテルみてぇ」と恐れられたこともある。
母は大学を卒業した年に同級生の父と結婚。下の私と弟が双子だったこともあり、26歳で3児の母だった。昭和の企業戦士の父は毎晩、午前様。転勤族の夫について実家から遠く離れた土地で、年の近い3人の子どもを一人で育てるのは大変だったとおもう。
小さい頃は毎日、日が暮れるまで公園で遊ばせてくれたけれど、幼稚園も年長になると「お日様が沈む前に帰ってくるんよ」と放し飼いだった。今なら放置子と騒がれそうだけど、昭和の家庭はどこもそんな感じだった。
自分は最高学府を出ているのに、子どもの成績には無関心。成績表は見もしなかった。
とにかく、お母さんという雰囲気からはほど遠く、いつも辞書を片手に英語の勉強をしていた。結婚で辞めてしまったが母が新卒で勤めた会社は令和の今も人気の大企業。時代が違えば共働きをし、あの性格ならそれなりに出世もして、自己実現できただろうにと気の毒におもう。
母は子どもに手が掛からなくなると通訳の養成学校に通いだし、最初はボランティアから始めて、少しずつ活躍の場を広げ、40代半ばで父の扶養を外れた。
私は大学入学と同時に一人暮らしを始めたのだが、家から1時間も離れていないのに、母は引越し当日も含めて一度も私の部屋には来なかった。卒業後、就職した先には全国転勤があり、最初の赴任先も次の赴任先も、観光地としても人気の大都市だったけれど、首都圏出身の同僚のお母さんたちが何度も遊びに来る中、やっぱり母は来なかった。すこし足をのばせば有名な温泉もあるからと両親を招待しようとしたら「温泉は苦手なの」と断られた。
そんな感じだったから、母娘で買い物や旅行に行く友人たちに、よく会話が持つな、と感心していた。
私は未婚シングルで、妊娠を機に実家に戻った。娘の父親と上手くいかなくなったとき、母が「仕事も子どももどちらもあなたの生きがいになるだろうから手放しなさんな。子育てなら手伝えるから」と迎えに来たのだ。
実家から初出勤の朝、母はお弁当を持たせてくれた。勤務先の周りは、それこそ数え切れないほどランチの選択肢はある。朝から大変だからいいよ、と断っても、栄養が偏るからと、産休に入るまでずっと作り続けてくれた。
娘が産まれたら、クールだとばかり思っていた母が実はとても子ども好きな人だと気づかされた。
娘が遊べるようになると毎晩、1時間でも2時間でも飽きるまでトランプやらカルタの相手をしてくれていた。毎夜のトランプは娘が小学2年生になるくらいまで続いただろうか。私は子ども相手でも本気を出すので、コテンパンに負かして、よく幼い娘を泣かせてしまったけれど、母はどうにか孫娘を勝たせようと四苦八苦していた。
娘が小学校に上がると、不審者に家に連れ込まれたら大変だと愛犬を連れて毎朝、孫娘を校門近くまで送るようになった。子どもの足でも10分もかからないのに。ババと犬をお伴に登校する娘はまるで桃太郎のようだった。
遊びに行った娘の帰宅前に少しでも外が暗くなるとソワソワしだし「ちょっと見てくるわ」と探しに行ってしまう。そういえば昔、部活や委員会で私の帰りが遅くなると母はよく校門の蔭に立っていた。迎えに来る保護者なんて一人もいなかったのに。
保育園のお便り帳には6年間ほぼ欠かさず娘の成長記録を書き続けてくれた。保母さんに他の子の5倍はあると言われたお便り帳は、どれもこんな面白いことを言っておじいちゃんを喜ばせた。わがままを言ってママに叱られたといった、書き留めておかなければすぐに忘れてしまったであろう幼き日の娘のセリフと、他愛のない日常であふれている。
卒園の前日、お便り帳の最後のページは「自分の3人の子は育児日記をつける余裕はなかったけれど、孫の成長の証として書きました。大人になった孫にこんなにも先生方や家族の愛情に包まれて大きくなったということが伝わりますように」と結んであった。
娘がまだ幼いころ、おばあちゃんはいつが一番幸せだったの?と聞いたことがある。ママたちが小学生だった30代も良かったけれど60代の今かなと答えていた。
私はひとり娘なのに結婚せず親不孝だったと申し訳なくおもうのだけど、母とまた一緒に暮らせたことはお互いにとって良かった気がしている。
相変わらず旅行に誘っても断られるし、あまり会話はないのだけど。
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