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超短編小説・歩く

先日、自宅から東京湾まで16キロ、川沿いを海まで歩いて下る、という22キロの "散歩" をしました。これは、そのとき心に浮かんだことを詰め込んだ文章です。

 
 彼は歩いていた。それは、純粋な歩きであり、純粋な移動であった。移動のための移動。彼は何かを追ってはいなかったし、また何かから逃げてもいなかった。その足取りは力強く、景色が次々に彼の後ろへと流れていった。川に沿って歩く彼を取り巻く景色は絶えず移ろい、彼の足音だけが一定だった。
 川は林を抜け、田園に差しかかった。土手の菜の花は、無表情に同じ黄色の列をなし、早咲きの桜は、はらはらと泣くように散り出しそうだった。鴨が日を浴びて、ぴいとひと声鳴いた。
 日差しは彼の澄ました鼻に嫉妬した。出る杭は打たれるし、高い鼻は日に焼ける。でもそんなことは彼にとってどうでもよかった。今は歩みが彼であり、彼は歩みなのだ。彼の頭と心はとうに、その地位を彼の左右の足に譲っていた。
 気がつくと下流まで来ていて、周りは無機質な高い建物とのっぺりと均質な住宅ばかりになった。犬が住民を散歩させていて、大抵は茶色いトイプードルだった。つぶらな瞳を輝かせてせっせと足を運び、これみよがしに愛想を振りまいていた。思わず顔を綻ばせながらそれを見遣って、無愛想で目に光がなく、用がなけりゃ歩きもしない人間たちよりよっぽど偉いじゃないか、と彼は思った。
 ふと顔を上げると、潮の香りがひと筋、風と共に流れてきた。彼は海を眺めることを愛した。海は眺めるところが沢山あるから。遠くの水平線を見つめていると、時間と場所から、そして肉体から、意識が遠く離れて、心が鎮まっていった。それから、とうとう波打ち際までやってきて、波が砂を洗うのをしばらくじっと見つめていた。彼は、自分の心までもが洗われていくようだ、と束の間の安らぎに浸った。波のふちのかたちが常に変わっていって、いつまでも飽きることを知らなかった。空を見上げれば海鳥がいて、こんな晴れた日に空を飛ぶのは気持ちがいいだろうなと、白い白い翼を仰ぎ見ていた。目線を地上に戻すと、髪を風になびかせ、貝殻を拾うそのひとの姿があった。彼の瞳にその姿は映っていなかった。
 気がつくと彼は朝の光の中にいた。まだ眩しさに開ききらない目を隣に向けると、それでいいんだ、と口の中でつぶやき、また目を閉じた。

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