青春小説【ある小説】

この作品も10年以上、過去に書いた作品です。

随分と遠くへ来たものだ。

忘れもしない。

ある時代に流行した映画の主人公の名台詞だ。

僕の頭の中でメリーゴーランドのように、どこかで耳にしたことのあるメロディーが流れ、ぐるぐると回転木馬のように、そのフレーズが駆け巡る。

次第に増す旋律。

やがて僕の口から吐いて出た言葉が、今の心境とは似て似つかわしくもないその一言だった。

小説を読まなくなって九つの季節が過ぎ去った真実を、その言葉を口にしてほんの数秒後、脳の全細胞を捉えては離さなかった。

今では珍しい木造作りの机。

引き出しはひとつもなく、ただ机の上には幼い頃、母に買ってもらった赤一色に身を包んだ円形の目覚まし時計が置かれている。

そして数冊の本。

六畳一間の洋室に照明はふたつ存在するものの、その役割を果たしているのは、そもそもこの部屋が作られたであろう時代から備え付けられているに違いない、天井から吊られている誇りまみれとなった年代物だ。

無造作に片手を伸ばして、カチッと卓上の電気を入れてみた。

接触が悪いのだろうか・・・。

やはり使うべきものを使わないと消耗の激しさとは矛盾して劣化の進行具合は、速度を増してしまうのだろうか。

二、三度、カチカチッと照明スイッチを押してみる。

天井の照明に負けじとばかりに、机の木目ひとつひとつまで、くっきりと浮かび上がらせてしまう光を机一面に見せつけた。

長年連れ沿った友人の如く、無意識にも机の上に置かれた数冊の小説。

本棚に陳列されたあらゆるジャンルの書籍たちとは、思い入れが違うのは明白であり、僕は十年来の友人に数年ぶりに再会した瞬間の嬉しさを味わっては、失うことのない感覚にまで陥った。

ドフトエススキーのカラマーゾフの兄弟、村上春樹のスプートニクの恋人。

彼らの作品に魅了され、いつしか僕自身が作家として生活を送ることになった。

閉めきったままのカーテンは年に五回ほど開ける程度だった。

時計の針は三時を指している。

だが昼夜の区別はない。

そう言えば僕は、ここ数日間の記憶がない。

冷蔵庫から最近、買ったであろうサンドイッチを取り出してみる。

日付は六月三日と記載されており、再会を待ちわびた恋人のように、不満そうにサンドイッチのハムと玉子が、僕を恨めしそうに睨みつけた。

サンドイッチを握りしめ、カーテンの方向へ目をやる。

太陽の光がカーテンの隙間から、かろうじて射し込んでいるのが窺え、少なくとも夜ではなく昼であろう認識を提供してくれた。

恐る恐るサンドイッチを包むビニールを紐解いて口にする。

どうやら直感が判断したのは正解のようだ。

確実に三日は経過しているに違いない。

少し酸味の効いたハムはスパイシーだ。

舌のヒリヒリ感が現実味を帯び、やがて麻痺を訴えた。

僕は問答無用、容赦なくゴミ袋めがけて、残った八割ほどのサンドイッチを思いきり、放り投げた。

携帯電話には何件かの着信コールが表示されており、日付は六月八日を示していた。

『僕は数日間、眠っていたのだろうか。ここ数日間の記憶がまるでない。まったく思い出せない』

そう呟いては少し汗ばんだ身体を洗い流すために、浴室へと足を運んだ。

浴室でどれくらいの時間が経過したのかさえ、考える力さえ湧かなかった。

服を着ることさえ億劫でならない。

にも関わらず、僕は乱暴な素振りで、机の上に乱雑に置かれた本を手に取り、布団の上に大の字で寝転んだ。

しばらくは背表紙を眺めていた。

長い時を経て再び、小説というものを読み始めた。

村上春樹[風の歌を聴け]

たまらない。とてつもなく。

デビュー作とは思えない。

独特な文体から醸し出される人間性や言語表現は、常識の範疇を逸脱さえしている。

このような作品を手掛けたい。

最初の書き出しの一行が鋭利なジャックナイフで、見事に心の臓を深く強く抉られてしまった。

何度、読み返したか分からないほど、読んでしまった彼のこの小説に、いつからか虜になるほど骨抜きにされた。

約三時間を要し、丁寧に読み終えた。

僕はグレーのトレーナーに身をくるみ、連絡をくれていた友人たちに順次、電話をかけては空白の数時間について疑問を投げ掛けていた。

当たり前のことだが彼らや彼女たちが、その様子の一切を知る由もない。

すなわち僕はこの数日間、おそらくだが、部屋から一歩も外出していないのだろう。

やはり、眠り続けていたのかもしれない。

ようやく、そのことに気がついたのは、玄関先に置かれていた牛乳瓶が三本、軍隊の訓練で厳格なまでに指導された兵士の姿勢を誇示せんが配列を見せつけ、威厳を保ちながらもおとなしく待っていたのだから。

ドアを閉め、机に向かった。

携帯電話を手に取り、実家の母へ連絡をした。

『今からそっちへ行くよ』

いつもの母の優しい声。

静寂な室内を飛び出した僕の右手には、どこへ外出するにも同行する黒いポーチが握られている。

昨年の誕生日に別れた彼女からもらった貴重な宝物のひとつだ。

中には原稿用紙とペン。

そして村上春樹の小説。

デビュー作にして傑作である小説[風の歌を聴け]が鎮座している。

雑踏を掻き分け、行き交う人の群れや車のクラクションなど、まるでそこには皆無のように扱いながら、僕は今居るこの場所から離れた。

僕の暮らすマンションの一室から、母の居る実家までおよそ百メートルあたりの距離だろう。

世界のトップアスリートたちが持てる力のすべてを出し切って走ったなら十秒もあれば、到着などいともたやすい距離だ。

僕はその僅かな、ほんのごく極めて僅かな距離を、遠足を満喫する小学生の集団のように楽し気に歩く。

玄関を開けると母がいつもの笑顔で出迎えてくれた。

この数日間の記憶など今更ながら、どこかに置き去りにしても何ら構わないとさえ思えた瞬間だった。

『テーブルの上に苺のケーキがあるから食べるといいわよ』

母の声に反応したのか、奥の仏間の脇にあるソファーで夢見心地の最中に身を委ねていた飼い猫のマーブルが、そっと身体をくねらせて僕の傍らへと近づいてきた。

ケーキをパクリと頬張り、マーブルの頭を数回、撫でた。

ポーチから原稿用紙とペンを取り出す。

テーブルの上の原稿用紙と向き合い、僕はペンを走らせた。

『いい作品が書けそうだ』

村上春樹のデビュー作[風の歌を聴け]が、ポーチから顔を覗かせている。

何故か、気分は上々だ。

台所で母が少し遅めの夜食の準備をしていた。

穏やかな町並み。

夜空も落ち着き、星星が点在し、それぞれの輝きを象徴しては輝きを競い合っている。

外界のあらゆる音という音が、優しく町全体を覆い、人々の心まで包み込む。

この数日間、僕がどう生きていたのか、そんなことなんて本当にどうだっていい些細なお粗末な出来事だ。

歯の痛みを言葉として伝えない以上は理解などは他人には至らないように、言葉として口から伝えたところで当の本人にしか痛みなど分からないように、僕の失われた数日間の記憶など少なくとも世界が抱え込んだ幾数もの難題からしてみれば、問題など微塵すら久しくとるに足らぬものだった。

無我夢中でペンを走らせた。

同じ言葉を口にした。

『いい作品が書けそうだ』

上機嫌で僕は、お茶を飲み干した。

飼い猫のマーブルが不思議そうな表情で一瞬だけ、僕を見たあと、ポーチの中を両手で掻き荒らしている。

村上春樹の小説がポーチからその姿を露に露出させた。

『こら―、駄目じゃないか。なんてことをするんだ』

僕はマーブルを叱った。

いや、叱った気持ちよりも愛しさが溢れだしていた。

マーブルの引っ掻いた痕跡が、タイトルの一部を絶妙にもぎ取った。

気にも留めず再び、ペンを取り、作品を書き始めた。

その光景を黙って見つめる小説のタイトルは、ほんの少し剥がれてしまっただけで、すっかりと大きく意味合いを変えてしまった。

村上春樹[虫の歌を聴け]

確かに部屋には聴こえるはずもなく居るはずもない季節外れのコオロギの鳴き声が、いつまでも止むことなく鳴り響いていた。



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