自分が歩いてきた道が結局正しい

みなさん、こんにちは。

自分は何の為に生まれてきたのか。
どんな人もと言うと、誇張しすぎであると思いますが、それに近しい思いを抱いたという人は少なくはないのではないでしょうか。

人は何の為に生まれてきたのか。

一見、哲学にしか思えないこの問ですが、僕個人としてはそこまで深く考える必要はないように最近では感じています。

それはいったい何故か。
それは単純明快、既にどんな人も知っているからです。

人生というのは個人差は明確に存在し、家族構成から地域社会など、多少なりとも類似性が生じる場合もあり得ますが、基本的にはそれぞれ全く異なるものです。

そんな中でも変化しない、不変の共通点があるとすれば、人類がみな持ち合わせるであろう、意志ではないでしょうか。

もちろん、知的障害などの他者から見れば意志を持ち合わせているのかど疑問視する状態の人もいるかもしれません。しかし、僕の考えとしては、たとえ脳死のようないわゆる植物状態の人であっても、心臓の鼓動がある限り、何らかの意思というものがあると信じています。

なので、どのような状態に我が身が置かれたとしても、人生の目的を考えるということは可能と言えるはずです。つまり、考える、選択するという意志だけは、貧富の差や人種、環境如何に関わらず、どんな人にも与えられている権利である。

そして、権利というのは、民主主義国家における何にも代えられない、豊かさの象徴であり、幸福であると言えます。つまり、過言かもしれませんが、自分の人生について考えることが出来る、その時点で一つの幸福が生じていると言えるのではないでしょうか。

自分はどのように生きれば正しいのか。

過去の僕もそうでしたが、人は正しさを求めるものです。
しかし、英語で正しさは「right」、奇しくも権利も英語で「right」であるのは言うまでもありません。

そして、上記のことを踏まえるなら、意志を持つこと、これも権利と言えるでしょう。ならば、正しさというのは、個々人が意志を持った時点である種の正しさとなると言えなくはないはずです。そして、誤りというものがあるとすれば、それは自分以外の誰かの意志を否定し、自身の意志を無理やりに押し付けた時、つまり誰かの「right」を奪った時がほとんどなのです。

自分の権利を放棄しないこと、自分の意志で人生を選択すること、それがどんな考えであろうと、その人にとっての正しさ、「right」です。

なので、酷な話かもしれませんが、自分の人生を振り返ってみて、幸せではなく、どちらかと言うと不幸だったと感じてしまったとしたら、それはその人にとって正しかったとしか言えません。どんな結末であろうとも、その過程は例外なく、自身で選択してきた道であるはずだからです。

もちろん、人に騙されたり、裏切られたりすることはあります。
しかし、その人を信じるという選択をしたのは、紛れもなく自分であるはず。

それに、仮に裏切られたとしても、その人を恨み続けるという選択を選びがちですが、気持ちを切り替え、その裏切った人よりも幸福だと思える人生にするべく、その第一歩を踏み出す選択もあるのです。

以上のことから、自分は何の為に生まれてきたのか。
それは、僕たちがどのような選択を己の権利、正しさを基に判断し、人生という轍を築くのか、それだけなのでしょう。

だからこそ、人は何の為に生まれてきたのか、それは人の数だけあり、その答えを導き出せるのはその人だけしか分かりません。

なので、深く考えず、自分がやりたいと感じたことをやってみる。やってみて、合わないと感じたらまた別のことを。そういったトライ&エラーを繰り返し、自分なりの答えを見つけること、それしかないのだと僕は思います。

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