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エッセイ:フェイク動画、あるいは監視カメラ

フェイク動画をネタにしたテレビドラマを見た。

『白でも黒でもない世界でパンダが笑う』だ(以下『パンダ』)。

そういえば、『三年A組』でもフェイク動画をネタにしていた。

あ、映画『スパイダーマン2』でもそうだ。

連続でフェイク動画ネタの作品を見ると、なんとなく、昨今はフェイク動画をネタにした文芸作品が多いのではないかと思ってしまう。

これらの作品に共通しているのは、いわゆる大衆主義(ポピュリズム)や、ポスト・トゥルースをネタにしていること。

見ている奴が騙されている的なやつだ。でもなにか違和感がある。ただ、大衆が騙されているね、という話なのだろうか。

これらの物語は、「視聴者が見てる動画は、残念、フェイク動画でした!」ということを明らかにして幕を閉じる。フェイク動画であることを種明かしにすることでカタルシスを与えて、何となく「物語が終わった感じ」にする。

しかし何か違和感がある。確かに物語は面白いのだけれども、なんかスッキリしない。「分からない」ことがある。

この「分からなさ」、つまり「私の抱える違和感」の原因は何だろう。

その原因を知るため、過去に見たフェイク動画を取り扱った作品について考えてみた。そうすると、『オーシャンズ11』や、『幽遊白書』の第19巻「のるかそるか」を思い出した。

この二つの作品と、昨今のフェイク動画の作品を比べることで、この違和感を描き出せないだろうか。


『オーシャンズ11』と『幽遊白書』の共通点

『オーシャンズ11』の物語は有名だし、ほとんど説明の必要はないだろう。プロの詐欺師チームを結成したオーシャンは、妻を寝取った男が経営するカジノの金庫からカネを盗み、終には妻を取り戻す物語だ。カジノに潜入する時、オーシャンたちは、監視カメラの映像をフェイク動画に切り替えていた。

ブラッド・ピットとジョージ・クルーニーはマジイケメン。

『幽遊白書』の「のるかそるか」は知らない人もいるだろうから、dアニメストアからあらすじを引用します。

「正聖神党」を名乗る霊会の過激派によるクーデターが発生し、コエンマやぼたんを含む100人近くが人質にとられ、審判の門が占拠されてしまう。事態を収めるべく、久々にパーティーを組んだ幽助、桑原、蔵馬、飛影は霊界に乗り込む。(dアニメストアのあらすじより)

蔵馬様はマジイケメン。

幽助たちは、過激派が占拠する施設に潜入するため、過激派が見張りのために使っている監視カメラをジャックして、フェイク動画を流す。過激派が、フェイク動画を見ている間に、幽助たちは人質を取り戻す。

このとき幽助は人質を取り戻す以外に、「もう一つのモノ」を取り戻している。この事件は、「魔界統一トーナメント」という大イベントが終わった後の、穏やかな生活の中で起きる事件として描かれる。幽助は穏やかな日常に退屈さを感じ始めていた。魔界統一トーナメントという大イベント経験した幽助は、日常の生活感覚を失ってしまったのだ。燃え尽き症候群だね。つまり、この事件は、幽助が日常の生活感覚を取り戻すためのステップとして描かれている。取り戻すもう一つのモノとは、「生活感覚」である。

オーシャンと幽助に共通するのは、フェイク動画を流し、見せたい相手がフェイク動画を見ている間に「何かを二つ」取り返すことである。オーシャンは「カネと妻」を取り返し、幽助は「人質と生活感覚」を取り戻す。オーシャンと幽助は、この「目的の二重性」において共通している。

では、『パンダ』、『三年A組』、『スパイダーマン2』はどうだろうか(三つを纏めて『三年A組パンダマン』とする)。誰がフェイク動画を流し、誰がそれを見ているのか。そして目的の二重性はあるのか。


フェイク動画を流す目的

『三年A組パンダマン』の物語には「犯人役」がいて、その「犯人」がフェイク動画を流す。そして、それを見ているのは視聴者を含む大衆である。誰かがフェイク動画を流して、誰かが騙されている。それはオーシャンズ&幽助とも共通している。

では、違っているところはどこだろうか。

違いは3つある。

1.専用モニターから、スマホ・PCの画面へ

オーシャンと幽助は、セキュリティルームにある監視カメラ「専用のモニター」にフェイク動画を流す。しかし、『三年A組パンダマン』の犯人は、YouTubeなどの「動画サイト」でフェイク動画を流がす。つまり、動画を流す場所が「専用モニター」から「個人のスマホ・PCの画面」に変わった。私たちがネットで見ている動画は、構造上、「監視カメラの映像」と同じになっている。昨今の映画ドラマは、「私たちが見ている動画=監視カメラの映像だ」ということを示唆している。

2.主客の逆転

オーシャンと幽助(および視聴者)は、「敵」に対してフェイク動画を見せていた。『三年A組パンダマン』では、これが逆転している。犯人が、主人公と視聴者にフェイク動画を見せている。動画を流す主体が、主人公から犯人へ変わっている。

3.二重の目的

オーシャンと幽助には、それぞれ二重の目的があった。表の目的としての「カネ」、裏の目的としての「妻」。表の目的としての「人質」、裏の目的としての「日常感覚」。では、『三年A組パンダマン』の犯人の「二重の目的」とは何だろうか。私はこの問題についてまだ解答を手にしていない。

つまり、この「二重の目的」の分からなさが、私の抱える「違和感」の原因だ。

「犯人」が大衆にフェイク動画を見せる。そこでは二重の目的がほとんど描かれていないように感じる。もちろん、「仕返し」のような、利害関係としての「表の目的」は描かれている。しかし、裏の目的は描かれない。仕返しのために騙してやったのさ、で終わりだ。そもそも、目的の二重性は存在しないのだろうか。つまりは、「手段が目的化している」と言えるかもしれない。

これは感情移入の問題でもある。
つまり、オーシャンと幽助には感情移入できるけれど、『三年A組パンダマン』の犯人に感情移入できない。なぜなら「二重の目的」がわからないからだ。

これに対して、「犯人」は主人公ではないのだから感情移入出来なくて当然である、という反論は正しい。しかし、スマホのカメラが監視カメラと化し、ネット動画が監視カメラの映像となった現代社会で、フェイク動画を流す主体である「犯人」は、どのような目的でフェイク動画を流すのか、私はそれを理解したいし、それを理解することが何かとても重要なことに思えるのだ。

これから先、フェイク動画を取り扱う映画やドラマ、漫画、アニメを見るときは、その問題に注意しながら見ていきたい。

そういう問題を取り扱っている文芸作品を知っている人がいたら、ぜひ教えてください(他力本願)。

おわり

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