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小説:第一話「コピー・アンド・ペースト」

 壁。赤い土壁。高い壁。頂上が見えない。下から見上げれば肩が凝るほどだ。

 壁はある領域を二つの領域に区別するために建てられる。壁を境にして内側と外側が形成される。目の前に壁がある、ということは、私は内側か外側のどちらかにいることを示す。壁の向こうにいる人間にとっては、私は外側にいる人間だ。それと同じ意味で、私にとっては、壁の向こう側にいる人間こそが、外側にいる人間なのである。
 それにしても、こんない高い壁を誰が建てたのだろうか。人類は当の昔に肉体を捨てている。この世界は物理空間ではなく、人間の意識活動にかかわるすべての情報がデータ化され、それらを素に創り上げられた仮想空間である。物理世界をコピーして、作られた世界だ。この空間に壁を作るには、どのような壁にしたいのか、という情報さえあればいい。任意の地点に当該の壁情報を固定化すれば、そこに壁ができる。
 したがって、誰がこの壁を建てたのか、と聞かれた場合、ある意味では、私が建てたのだ、と答えることができる。壁よ、あれ。私のその一言でどんな高い壁でも創り上げることができるのだ。誰にでもできることだから、私が建てましたと言っても、疑う者はいない。私が建てました。はい、そうですか。

 などと無益なことを考えながら、壁の上部から下部の方へ目を落としてみれば、ひとりの青年が壁の前に立って何かをしていることに気が付いた。小さな石で壁に何かを刻み込んでいるのだろうか。何をしていたのか、と聞いてみると、自分の名前を刻み込んでいるのだ、とその青年は何か重要な儀式を執り行う神主のような厳かな表情で答えた。
 そうか、邪魔したな。ところで、彼はどのような事情があって名を壁に刻んでいたのだろうか。彼がそうしていた理由は彼自身に聞いてみないと分からないし、彼はすでに向こうへ行ってしまったので確かめようがなくなってしまった。彼と同じように、観光名所にある建物などに自身の名前を書いていく輩が多く存在する、ということが、その昔ニュースになっていたことを思い出した。落書きを消したそばから落書きされていくので、観光地を保全している団体が困ってしまって大変だという小さなニュースだ。なつかしい。
 彼らは、名を刻む時に、「○○参上!」や「○月○日」のように、来た事自体、または日付など来た事に纏わる情報を、名と合わせて刻んでいく傾向にある。この柱は私のものだ、この壁のこの部分は私のものだ、というような、所有を表すために名を刻んでいるのではなく、あくまで、ここに来た、ここに私という存在がいた、ということを記しているのだ。つまり彼らの存在の証を残そうとしている、と考えられる。
 しかし、当たり前のことだが、壁に名を刻んだ程度で、彼らの存在がその場に残るはずがない。確かに壁に傷跡は残るが、それ以上でもそれ以下でもない。
 一昔前、つまり仮想空間に移行される前の物理空間では、自分の存在を残すことは大変困難であったと聞いている。
 かつて人間は身体を介してリアルの世界と接触していた。物理世界は、身体を境目にして、意識とリアルの二つに分けられている。言い換えると、身体という「壁」によって、世界は意識とリアルという二つの領域に分けられているのだ。「接触」というのは、二つの方向がある。リアルから身体を通して意識へ至る接触と、意識から身体を通してリアルへ至る接触である。
 人間の意識は、リアルの世界の情報を、身体によって、感覚器官によって、神経細胞によって、脳によって、読み取っていた。では逆に、リアルの世界に情報を残すにはどうしたらよいのか。リアルの世界との接点はこの身体以外にはない。ならば、問題はこの身体をどのように使用すればよいのか、ということになる。
 例えば、壁を作るということも、意識の情報を、身体を使ってリアルの世界に具現化することになるだろう。どれくらいの大きさにするか、どんな色にするか、素材は何にするか、模様はつけるかなど、壁を実際に作ることで、意識の中で考えた様々な情報をリアルの世界に残すことができる。
しかし私は壁が作りたいのではない。仮想現実化以前の物理世界で、どうやって「私」という存在をリアルに残すことができるのか、について考えているのだ。壁を作るという行為では、「存在」をリアルの世界に残すには情報量が少なすぎる。確かに、「作り手の人と成り」は表現されるかもしれないが、存在それ自体ではない。存在には大量の情報がある。記憶と言い換えられるかもしれない。すべての記憶、大量の記憶情報。では、その大量の情報をリアルの世界に残すにはどうすればいいのか?

 それに最も近しい行為は、子を生すことであった。

 物理世界において、人類は子を生すこと以外に、大量の情報をリアルの世界に残す方法を持ち合わせていなかった。人類には常に男性と女性が必要だったのだ。そしてこの方法には大きな欠点がある。子を生すだけでは、「記憶」を残すことはできなかったのだ。子に、人間の大量の記憶をインストールするためには、教育というシステムが必要だった。子を生すことは、人間の「型」情報を残すことで精いっぱいなのだ。

 しかし、これはあくまでひと昔前の話だ。

 では、いま私のいるこの世界、強力な情報処理能力を持つ演算機械によって実現された、この仮想空間において、自分の「存在」をリアルの世界に残すにはどのようにしたらよいのだろうか。

それはこうだ。

 コピー・アンド・ペースト
 コピー・アンド・ペースト
 コピー・アンド・ペースト

 かくして、私は私を(私の情報を)三人分コピーアンドペーストし、ペーストされた三人の私が目の前に立ち、公営住宅の玄関先にある階段の一番下の段に座っている私を見下ろしている。
「やあ私」
「こんにちは、私たち」
 簡単な挨拶を交し合う。

 この方法はこの世界では一般的な手法で、誰もが行うことができる。私よ、あれ、の一言で十分だ。この私がコピーアンドペーストによって私自身を出現させたのはこれが初めてである。確かに私は、私の存在をリアルの世界に残した。この三人は、私の意識の中ではなく、私の意識の外、つまり私の目の前に立って存在している。
 歴史的建造物や壁に名を刻んだところで、存在を残すことはできない。もっと大量の情報を残さなければならない。それは強力な演算能力によって実行される。

 しかし、何か釈然としない。事実として私は私の存在を残した。私という型だけでなく、記憶もすべてコピーした。この命題は真である。確かに実行した。目の前に私が三人立っている。しかし、私の存在を世界に残したことになるのだろうか。本当にそうなのか。猜疑心を否定できない。私の「釈然としない」という実感を消すことは、この真実を信じるのか、信じないのか、という信仰の問題にすぎない。
 そしてわたしは信じることができなかった。やはり、あれだろうか。いわゆる努力や苦労が足りないからだろうか。昨今の政治家先生方は声を大きくして叫ぶ。

 大切なものは生き甲斐だ。
 生き甲斐は、努力と苦労によって手に入るものだ。
 そのためにはGDPの向上が必要だ。
 働いて生産してGDPを上げることで、生き甲斐を得よう。

 しかし、人々はどうもやる気を出さないらしい。この世界では、今しがた私がコピーアンドペーストしたように何事も簡単に成すことができる。簡単に成すことができると、人はやる気を出さない。それだけではなく、生き甲斐をなくした人々は、バックアップなしの状態で、オリジナルデータを強制消去してしまう。生きる実感がないからだそうだ。人は生産のリソースであるから、人口の量はGDPに直結する。政治家の先生がたはデータを強制消去する人々に語り掛け、人口減少に歯止めをかけたいらしい。
 私もまた、生き甲斐を失っているのだろうか。生き甲斐無き存在は、どうしたらよいのだろうか。
 しかし、目の前には確かに私の存在情報が三人分並んでいる。コピペによって私の存在情報がリアルの世界に残されたということは、事実なのだ。そうであるならば私はこれからどうしたら良いのか。

「ペーストしておいてだんまりを決め込むとは、いい度胸だと言いたいところだが、私は私のコピーだ。私が何を思い悩んでいるのかは、簡単に予想がつく、というか、同じことを考えている、という方が正しい」

 と真ん中に立つ私が、私に向かって言った。

「右に同じく」
「左に同じく」

 逡巡している私に、目の前の私たちは、座ったままの私に優しく声をかけてくれた。同じことを考えているのであれば、心強い。

 デリート
 デリート
 デリート

 かくして、私は一人になった。隣に立っていた私は消え、目の前に座っていた私も消えた。私は一人、公営住宅の前で立ちすくんでいる。

https://note.com/preview/nf8239534b7f9?prev_access_key=c7ce271174ea4808f9a0cba8e6f151c4


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