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エッセイ:人間は物体があると感じる

今年は経験論について掘り下げて考えたいと思っています。

まずは手始めに、岩崎武雄『西洋哲学史』と熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』の経験論の箇所を再読しました。


左:『西洋哲学史 近代から現代へ』,熊野純彦,2006(第14刷),岩波新書
右:『西洋哲学史』,岩崎武雄,1952(再訂第50刷),有斐閣

今回は、概説的に経験論についてまとめてみたいと思います。

ルネサンスの時代から科学の勃興と啓蒙主義へと時代が流れ、17世紀のイギリスではジョン・ロックを象徴にして、経験論が展開されました。

ロックの経験論は後のジョージ・バークリとデイヴィッド・ヒュームによって批判的に展開されることで、イギリス経験論の大きな思想の流れが生まれます。

批判されたロックの概念は主に三つあり、第一性質と内省の抽象能力、そして、複合観念としての実体についての考え方でした。

※第一性質とはモノが持つ性質のこと
※内省とは内感とも言われる、反省的な感覚です

概念的な定義は置いておくとして、ようは、第一性質も抽象も実体も「無いよね」と批判されたのです。

批判内容を簡単に以下三つにまとめましょう。

ひとつ、人間の認識能力は感官を媒介にする限り、物自体には触れられないのだから、第一性質があるとは言えないということ。

ふたつ、単に個別の経験があるだけで、代表性は作れても抽象は出来ないということ。

みっつ、実体(特に物体)は認識能力を超えているので、実体があるとは言えないということ。

経験論を突き詰めればこれらの批判はもっともで正しいものです。

一方で、人間は第一性質なるものがあると思い込んでしまうし、抽象した概念があると思い込んでしまうし、実体があると思い込んでしまうでしょう。

ようは、人間には「物体があり、それが持つ抽象的な性質があると思い込む能力」があるのだ、と考えると、ロックの言うことはあながち間違いではないとも言えます。

つまり、ロックの言う第一性質や抽象の能力は、正確には無いのかもしれないけれども、同時に、人間は「実体=物体がある」と一旦受け入れて世界と関係する能力がある、ということ。

めちゃくちゃ要約すれば、わたしたちは目の前にコップがあるときに、「コップがある」と感じる、ということ。

「本当は無い」と感じるのではなく「ガラスだから落としたら割れるし、破片を触れば指が傷つく」と感じる、ということ。

目の前のコップの性質のようなものを抽出(抽象)して感じている。

このような意味で、人間には見たものを抽象して、物体があると感じる、ということかもしれません。

これは科学や工学が席巻している現代から見れば当然と言えば当然の感覚でしょう。

物体が無いとしたら車も電車も飛行機もそもそも作れない。

エレベーターも義肢もPCも作れない。

でも、「抽象的に物体があると感じる」というロックの素朴な経験的感覚は、いわば錯誤であるとバークリとヒュームによって批判されたのです。

正確に言えば、抽象や物体はないのでは無いだろう、という批判です。

言ってしまえば、わたしたちが見ているのはあくまでコップの像であって、コップそれ自体では無いということ。

このように、ロックの経験論は「正確性」において批判されましたが、わたしは現実的、常識的には、いたって普通のことを言っているように思います。

したがって、人間がどのように勘違いしながら、第一性質やら抽象やら実体を想定してしまうのか、という視点でロックの経験論を読み返すのは面白いのではないでしょうか。

つまり、人間は何も認識できない、と懐疑的に考えるのではなく、どうして何かを認識した気になれるのか、と捻って考えた方が面白いように思うのです。

今回は、ロックの再読の可能性を提示して終えようと思います。

次回は、もう少しイギリス経験論の思潮を詳しく考えてみたいと思います。

ではまた次回。

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