エッセイ:自己について
性懲りも無く、「自己」について考えてみたいと思います。
「自己」とは何か。
自己、自分、自我、わたしについて。
1.自己についての二つの語り方
自己について、人びとが語るとき、大きく分けて二つの語り方があるように思います。
第一の語り方は、自己とは、ひとつにまとまった「何か」である、というもの。
昨日のわたしと今日のわたしが、あるいは、数年前のわたしと数年後のわたしが、ひとつの「わたし」にまとまっている。
わたしは、唯一無二の存在であり、ひとりの主体であるということ。
平たく言えば、「わたし」というものが、あるひとつの物語の主人公であるように語ることです。
一般に、「わたし」という一人称で話すときは、この第一の語り方、統一的な語り方をしているように思います。
第二の語り方は、第一の語り方を否定するような語り方です。
わたしは、主体として存在しているのではない。
まとまりは無く、バラバラであるということ。
「わたし」のようなまとまりがある、と感じることは、ある種の幻想である、という語り方です。
たとえば、わたしというものは、実は遺伝子によって構成されているんだ、という語り方があるでしょう(自我とはATGCの塩基配列のみる夢である、など)。
つまり、わたしとはATGCの塩基に分解できる、というような語り方です。
分解できる、つまり、バラバラであるということ。
他にも、組織の歯車のひとつに過ぎない、だとか、臓器の集合体、だとか。
たまたま生じている現象であるとか。
わたしとは、ある種の構造によって成立しているのであり、構造であるからには分解してバラバラにすることができるというわけです。
この第二の語り方を、分解的な語り方と呼びましょう。
このように、自己についての語り方には、大きく分けて二つの語り方があります。
ひとつは、統一的な語り方、もうひとつは、分解的な語り方です。
2.統一的で、分解的な
では、二つの語り方のうち、どちらか一方が正しいのでしょうか。
わたしは、どちらか一方が正しいとは考えません。
答えは、真ん中にあるように思うのです。
つまり、自己とは、統一的であり、かつ、分解的であるということ。
星座は、本来全く相互に関係のない星を結び合わせて、ひとつの形を構成しています。
一カラットのダイヤモンドは、10の21乗個の炭素原子によって成り立っています。
眼の前に丸が三つあると、人間の視覚はそれを「顔」であると誤認識してしまいます、しかし実際は三つのただの丸です。
人間の身体は、約60兆個の細胞から形成されていると言われています。
それぞれの細胞は、独自に動いていますが、相互に有機的に連結していて、心臓が血液を押し出し、ふくらはぎの筋肉によって押し返された血液が体内を巡り、肺で吸入した酸素が、脳に運ばれます。
この有機的なシステムを、統一的にひとつの自己と呼ぶことができる。
しかし、やはり、もとは60兆個のバラバラの細胞なのです。
たしかに、わたしという統一体はある種の幻想に過ぎない、という分解的な考え方は、説得力があります。
わたし自身としては、わたしはバラバラである、と意識することの方が多いです。
わたしの認識機能、わたしの脳細胞は、自己の統一性、自己のまとまりを「感じ取っているだけ」であり、実はそれは幻想に過ぎない。
そう思います。
でも、それを反転させてみることも、また可能だと思います。
たしかに、わたしという現象は、脳細胞の見せる幻想なのかも知れない。
しかし同時に「幻想」という形で、ある種のまとまりを有している。
本来はバラバラかも知れないが、実際には、わたしは「わたし」という一人称を使って生活しているし、あなたもわたしも、この「幻想としてのわたし」という「まとまり」を有しているではないか、と。
統一的でありながら、じつは分解可能であるということ。
そして、バラバラに分解できるけれども、その個々バラバラな構造は「幻想」というある種の統一性を有している、ということ。
わたしが考える「自己」は、このように、統一的で分解的な幻想としての「自己」なのではないでしょうか。
3.幻想を構築する
さて、ここからさらに飛躍しましょう。
もし、自己というものが、実はバラバラな構造が見せる「幻想」なのだとすれば、わたしたちは、「幻想」の形成過程に干渉することができるのではないだろうか。
形成過程に干渉するとは、どういうことか。
つまり、バラバラな構造に干渉できれば、わたしたちは、そこから生じる「自己という幻想」にも干渉できるのではないか、ということ。
今日のわたしがやったこと、明日のわたしがやること、明後日のわたしが、一週間後のわたしが、一か月後のわたしがやること、今日から先のわたしがやることは、一年後のわたしに影響するということ。
どんな映画を見るのか、どんな音楽を聞くのか、どんなマンガを読むのか。
どんな記事を書くのか、どんな詩を書くのか、どんな小説を書くのか。
どこを歩くのか、走るのか。
スキップしてみる、踊ってみる、手を叩いてみる。
何かを習慣化してみる。
そうすれば、バラバラの構造の一部分に干渉できるのではないか。
そして、自己という幻想を作り変えることができるのではないか。
自己は幻想であり、可変的である。
自己が統一的であり分解的であるということは、可変的でもある、そんな風にも考えられます。
わたしは今日も生き、明日のわたしに干渉している。
今日読んだ本が、今日読んだあなたの記事が、明日のわたしに干渉している。
そう考えると、次に何をしようか、と少し楽しくなってくる、そんな風に思うんです。
あなたは、「自己」について、どのように考えていますか?
おわり
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