デレラの読書録:櫻木みわ『カサンドラのティータイム』
例えるなら、ガラス細工を手に持って綱渡りをするようにして書かれた小説。
家庭内、あるいは大人二人の間のプライベートな、閉じた空間で起きた出来事について、そこで生じる「暴力性」を問うとき、どのような言葉が必要になるだろうか。
暴力性を問おうとすれば、加害と被害を二項対立を避けて通れない。
被害を受けた登場人物に同情的に物語は進むが、加害の生まれた原因に踏み込む展開に、作者の覚悟を感じる。
本当にこれで良かったのだろうかと逡巡しながら、答えのない状態で、手探りに言葉を紡いでいるのではないか。
そう感じる。
登場人物の未知は言う、「どうしてこうなったのか知りたくて(p.102)」と。
まさにこれは、作者自身の言葉でもあるのではないか。
やや飛躍して換言すれば、暴力の加害被害が生じたのは何故なのかという問いである。
暴力は少なからず構造が関係する。
どういうことか。
ようは、発生しやすい構造がある。
例えば、力が強いものから弱いものへ、収入が多いものから少ないものへ、資産が多いものから少ないものへ、知識を持つものから持たないものへ、人数の多い集団から少ない集団へ、高いところから低いところへ水が流れるように、暴力の向かう方向には傾向がある。
確かに暴力の流れには傾向がある。
しかし、とは言え、構造が悪いのであって個人は悪くないと、個人が免責されるわけでもない。
構造か個人か、この綱渡りを作者はしている。
ならば、作中の登場人物たちの悲しみの原因はなんなのか。
直面する現実を超えて、現実の流れの源流に遡ろうとする主人公・未知。ティータイムを終えて、決意したカサンドラが向かう先。
慈悲と寛容、そして愛と強さ、だろうか、はっきりとは分からないけれど、ただ容易に到達できるようなものではない。
わたしは既婚の男性であり、子どももいる。
収入や身体的な力の構造からすれば、家庭内暴力は、わたしから妻や子へと向かう可能性があるだろう。
わたしはその流れの真っ只中にいる。それを今一度、自覚した。
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