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デレラの読書録:櫻木みわ『カサンドラのティータイム』


『カサンドラのティータイム』
櫻木みわ,2022年,朝日新聞出版

例えるなら、ガラス細工を手に持って綱渡りをするようにして書かれた小説。

家庭内、あるいは大人二人の間のプライベートな、閉じた空間で起きた出来事について、そこで生じる「暴力性」を問うとき、どのような言葉が必要になるだろうか。

暴力性を問おうとすれば、加害と被害を二項対立を避けて通れない。

被害を受けた登場人物に同情的に物語は進むが、加害の生まれた原因に踏み込む展開に、作者の覚悟を感じる。

本当にこれで良かったのだろうかと逡巡しながら、答えのない状態で、手探りに言葉を紡いでいるのではないか。

そう感じる。

登場人物の未知は言う、「どうしてこうなったのか知りたくて(p.102)」と。

まさにこれは、作者自身の言葉でもあるのではないか。

やや飛躍して換言すれば、暴力の加害被害が生じたのは何故なのかという問いである。

暴力は少なからず構造が関係する。

どういうことか。

ようは、発生しやすい構造がある。

例えば、力が強いものから弱いものへ、収入が多いものから少ないものへ、資産が多いものから少ないものへ、知識を持つものから持たないものへ、人数の多い集団から少ない集団へ、高いところから低いところへ水が流れるように、暴力の向かう方向には傾向がある。

確かに暴力の流れには傾向がある。

しかし、とは言え、構造が悪いのであって個人は悪くないと、個人が免責されるわけでもない。

構造か個人か、この綱渡りを作者はしている。

ならば、作中の登場人物たちの悲しみの原因はなんなのか。

直面する現実を超えて、現実の流れの源流に遡ろうとする主人公・未知。ティータイムを終えて、決意したカサンドラが向かう先。

慈悲と寛容、そして愛と強さ、だろうか、はっきりとは分からないけれど、ただ容易に到達できるようなものではない。


わたしは既婚の男性であり、子どももいる。

収入や身体的な力の構造からすれば、家庭内暴力は、わたしから妻や子へと向かう可能性があるだろう。

わたしはその流れの真っ只中にいる。それを今一度、自覚した。

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