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エッセイ:認識の快楽について

認識というのは、快楽を伴っています。

快楽、つまり心地よさです。

見て気持ち良い、聴いて気持ち良い、触って気持ち良い。

そして認識とは、何かを見て聴いて触って識ること。

では、認識の快楽とは何か。

それは二つあるように思います。

一つは、分かることの快楽、そしてもう一つは、分からないことの快楽です。


1.分かることの快楽

何かを理解したとき、わたしは気持ちよさを感じます。

腹にストンと落ちる感覚。

それは、アハ体験であり、いわゆるユリイカというやつです。

では、「何かが分かる」というのは、どういうことでしょうか。

「分かる」と言うとき、わたしたちは、何が分かっているのか。

分かる「対象」とは何か、ということです。


ひとつは、定義です。

定義というのは、AはBである、ということであり、Aの意味内容を決定することです。

定義が分かることで、ある物事が何であるかを理解できる。

次に、関連性です。

AはBである、CもBである、したがって、AはCである、というように、Bを媒介にしてAとCを理解するということ。

このように、わたしたちが分かるというときの対象は、「定義」と「関連性」なのです。

定義と関連性、これだけでは抽象的で分かりにくいですね。

物語を読む、という比喩で考えてみましょう。

たとえば、マンガを読むと、まずは主人公がどういうキャラクターかを理解するところから始まるでしょう。

主人公の特技は何か、性格はどうか、何を目的としているのか。

これらは、主人公のキャラクターの定義にかかわる事柄です。

そして次に、物語のなかで、主人公と、その他のキャラクターとの関係性が明らかになります。

仲間は誰なのか、恋人は誰なのか、敵は誰なのか。

このように、キャラクターの定義と、キャラクター間の関係性を理解することが、物語を楽しむことの一つであると言えるでしょう。


さて、わたしたちは、認識の快楽について考えているのでした。

そして認識の快楽には二つある。

一つは、分かることの快楽、そしてもう一つは、分からないことの快楽でした。

分かることの快楽は、定義を知ること、そして関係性を知ることにかかわっています。

そしてわたしたちは、「分かること」を、物語を楽しむようにして、楽しんでいるのです。


2.分からないことの快楽

次は、分からないことの快楽について考えてみましょう。

普通、分からないことは、ストレスであり、不安です。

わたしはここで、マゾヒズム的に、不安自体が快楽なのだ、と考えているわけではありません。

わたしの言う「分からないことの快楽」における「分からなさ」とは「不安」のことではない。

それは「潜在性」であり、「見えていないこと」であり、「見えていることの向こう側」なのです。

どういうことか。

たとえば、夕焼けの美しさを考えてみましょう。

夕焼けという現象は、太陽の光が、地上の観察者に対して入射角が浅い状態で入ってくるとき、太陽光の持つ光の波長のうち、長波長の赤色の光だけが残り、短波長の青い光が拡散してしまうことで、生じる現象です。

日中は太陽が、観測者の真上(直角90度であるとイメージしてください)あるので、青い波長が観察者の目に届きます。

しかし、夕焼けの時間には、太陽光の角度が浅くなっているので、青が見えず、赤付近の色が良く見えるのです。

ようは簡単に言うと、日中と夕焼けでは、わたしたちの目に届く光の波長(色)が違うのです。

そうして、オレンジから赤色の光が空を覆い、幻想的な美しい風景が出来上がります。

これが夕焼けの定義です。

さて、わたしたちは、この夕焼けの美しさに感激するとき、このような「夕焼けの定義」だけに感激しているのでしょうか。

応えは否でしょう。

わたしたちは、夕焼けに快楽を感じるとき、その定義だけに快楽を感じているのではありません、ましてや関連性でもない。

たしかに、なるほど夕焼けとはこのような現象なのか、と定義を理解することは楽しい。

これは分かることの快楽です。

一方で、わたしたちは、夕焼けが何か分からないまま、その美しさが心に満たされ、快楽を感じている。

夕焼けが刻一刻と、夜に近づきつつ色が変化していくのを見ている。

そのとき、わたしたちは、間違いなく「定義や関連性」とは違う別の快楽、つまり「分からないことの快楽」を感じているのです。


3.見えていることの向こう側

夕焼けを観て快楽を感じるとき、わたしたちは夕焼けの定義や関連性に快楽を感じているわけではありません。

では、わたしたちは夕焼けを見ているとき、何を認識しているのでしょうか。

それは、見えている赤色のグラデーションであり、その向こう側です。

向こう側とは何か。

それは、見ていることの、見えないところです。

見えているのに、見えないというのは、矛盾した言い方ですが、例をみて考えてみましょう。

たとえば、通りすがりに何かが目に入り、目を奪われる、ということがあるでしょう。

目が奪われるとき、わたしたちは、それが何だかわかっていません。

要するに、定義も関連性も分からず、ただ目が奪われてしまう。

そして、それが何か分からないまま、目を離すことができない。

このとき、わたしたちの目には何が映っているのでしょうか。

第一に、目を奪う「それ」が映っているでしょう。

そして、次に、それが何であるか分からず、そのものの分からなさが映っているのです。

そして、その目の前の「分からなさ」が、これからどんな風に変わるか分からない。

そのままなのか、形が変わるのか、色が変わるのか、動くのか、笑いかけてくるのか、話しかけてくるのか、そっぽをむくのか、舌打ちをするのか、伸びるのか、縮むのか。

その変化する可能性を丸っと見ている。

それの行く先を見ている。

変化の可能性や動きを、潜在性と言い換えられるでしょう。

つまりは、今は見えていない、これから起こるかもしれない(あるいは起こらないかもしれない)何かを見ているのです。

そのとき、わたしたちは、すでに「それ」自体を見ているとは言えないでしょう。

わたしたちは、これから訪れるかもしれない「それ」変化や動きを、「それ」の向こう側を見ているのです。

夕焼けの例に戻るならば、夕焼けが次にどんな色に変化するか、陽が沈んでいく様子、グラデーションそれ自体をそっくりそのまま見ている、ということ。


4.認識のグラデーション

さて、わたしたちは、認識の快楽について考えてきたのでした。

繰り返しますが、一つは分かることの快楽であり、もう一つは分からないことの快楽です。

分かることの快楽は、定義と関連性を知ることの快楽でした。

そして、分からないことの快楽とは、何か分からず、でも目を離せない何かを、これからどのように動くのかという変化を含めて見ることの快楽でした。

このように二つを分けて説明していますが、わたしは、前者が悪くて後者が良いと言いたいのではありません。

というのも、わたしは、「認識」というはこの二つの快楽が同時に起きていることだと思うからです。

たとえば、絵画を見るとき、そこに描かれているモノが何であるかを理解して、その絵画の成立した時代背景と画家の関心を、つまり絵画の定義と関連性を知って楽しみながら、そして同時に、その絵が持つ「分からなさ」を享受しているように感じられます。

あるいは、日常生活で、散歩をしているとき、通勤で使う道を歩いていても、違う側面が見える。

些細なことに目が奪われて、それが何なのか目で追ってしまう。

あんなところにあんな建物があっただろうか。

この橋はこんな形をしていたのか。

よく見ると何だかよく分からない。

このように、認識を分かることと分からないことのグラデーションなのでしょう。

そう考えると、何かを認識することが楽しくなってくるように思います。

目の前のものを定義的、関連性的に捉えてみる、次に、そのものの変化を期待してみる、あるいは変化するとしたらどんなふうになるか想像してみるということ。

公園、美術館、雑踏、車窓。

雑貨屋、コンビニエンスストア、町の風景。

道、雲、窓に滴る雨。

小説の一節、マンガの一コマ、映画のワンシーン、音楽の一小節。

あらゆるところに、分かること分からないことの快楽があり、意識を振り向けさえすれば、それらをわたしは享受することができる、そんな風に思うんです。


あなたのまわりには何がありますか、それはどんなふうですか?


おわり

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