デレラの読書録:櫻木みわ『コークスが燃えている』他1冊
こんにちはデレラです。
今回は、櫻木みわさんの小説『うつくしい繭』と『コークスが燃えている』の感想文です。
ざっくりとネタバレもしてますのでご注意ください。
1.記憶にアクセスするために『うつくしい繭』
『うつくしい繭』は、記憶にまつわる物語であり、ゆるく繋がった短編連作です。
何かを記憶するためには、何かを知らなければならないし、何かの記憶にアクセスするためには、その意味を紐解かなければならないでしょう。
物語では、声や石、宗教的施設や怪しげな装置を媒介にして記憶にアクセスします。
記憶にアクセスすれば、アクセス前とは別人になるようでもあり、あるいは、原初的な自分に回帰しているようでもあります。
また、食べ物の描写が秀逸で、物語を進めるための秘儀のように形而上学的かつ神秘的でありながら、形而下的に単に食欲をそそられるようでもあります。
あと、言葉の歯切れが気持ち良かった。
2.個人的な体験『コークスが燃えている』
『コークスが燃えている』は、とても複雑な物語でした。
何が複雑かというと、読者であるわたしの主人公への感情です。
大抵の場合、わたしの読書体験において、読者であるわたしは、物語上の出来事を蝶番にして、主人公などの登場人物の心情に感情移入や自己投影します。
わたしは、今回の読書でも、『コークスが燃えている』の主人公・ひの子に感情移入し、自己投影しました。
しかしながら、この小説においては、わたしの感情移入、あるいは自己投影は、完全に脱臼してしまいました。
男性のわたしが「共感した」と言って良いのだろうか。
そう思ってしまったのです。
主人公の置かれている状況は、わたしとは全く異なるものでした。
あえて、主人公・ひの子がどのような状況に置かれていたのか、わたしはここで説明しません。
ただ、わたしとは全く違う状況であることが重要なのです。
この小説を読み、わたしは「個人的な経験」について考えました。
大江健三郎の『個人的な体験』にも通じるような、ひとり人間が体験する何か、です。
ある人間の個人的な経験に、安易な同情や共感は憚られるのだけれど、読書中は「燃えるコークス」が発する熱を感じ、読後にも残り火にジンジンと焼かれる感覚がありました。
わたしが体験できないわたし以外の人間の感情、個人的な経験は個人のもの。
でも、わたしは、たしかにあの物語に共感し、自己投影し、感情移入をしたはず。
わたしが感じたあの熱は、わたしがこの物語を読んだことの証左。
わたしは、共感できない共感という、複雑さをこの物語に感じたのです。
追記 個人的、歴史貫通的 『コークスが燃えている』について
ひの子の個人的な経験は、個人の体験でありながら、同時に歴史貫通的な体験でもありました。
それは、ひの子が「筑豊の炭鉱町出身」であることに関係します。
作中に登場する井手川泰子『火を産んだ母たち』を蝶番にして、ひの子の経験を歴史貫通的な経験に置き直されるのです。
それは、主人公の名前「ひの子」に刻まれています。
ひの子とは、「火の子」であり、女抗夫(火を産んだ母たち)との連続性があると感じられます。
大江健三郎の『個人的な体験』は、歴史性から完全に脱臼した「個人」のように思われますが、櫻木みわの『コークスが燃えている』は、同じ個人的な経験でありながら、歴史性を有しています。
どちらか一方が優れている、という単純な話ではないでしょう。
しかしながら、この「個人的」でありながら同時に「歴史貫通的」に描かれたこの物語の複雑性は、この作品の核であるように感じられました。
おわり