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自己理念と夢

理念

誰もが自信をもって生きられる世界を作る。 「死」の授業をみんなに。

ビジョン 
文化交流で差別・偏見のない世界にする。

私のやりたいことは大きく分けて二つ。

一つ目。差別のない世界を作ること。
小学3年のころ、自分のクラスにスーダンからの転校生がやってきた。
彼女と出会ったことによって、スーダンの文化や慣習など、様々なことを教わって、初めて地図上ではない”一つの国”を生で感じた気がした。
しかし彼女は、「みんなと違うから」という理由で、いじめられるようになってしまった。

もし僕たちが彼女が持っていた「違い」を、もっと深く知って”個性”として捉えられていたら、彼女がいじめられることはなかったのかもしれない。
だから僕は、「違い=排除すべきもの」という考えを世の中から払拭したい。

そのために何が必要か。私はそれが文化交流であると考える。
隣にいるだけでいい。一緒に何か創るだけでもいい。
そうやって関わろうとすることで、言葉が通じなくともその人の一面は見られると思う。
そんな「非言語な部分」を大事にしながら、違いなんて関係なく誰もが自信をもって生きられる世界を、僕は創りたい。

そしてもう一つ。
死生学の授業をしてみたい。
人は死について考えた時、人生のタイムリミットを意識する。
死とは何か。 生きているうちには誰にも正解が出せないこの問いの答えを見つけようとすることによって、「生きる」ということにも目を向けていくようになる。
刻々と迫る「人生の答え合わせ」を前に、子供たちは何を感じ、何を思うのか。それを間近で見ていたい。

小学2年。祖父が死んだ。その時僕が感じたのは、「怖い」という感情だった。
今まで元気だったあのおじいちゃんが。
今まで大きな手で頭をなでてくれたあのおじいちゃんが。
小さな小さな骨壺におさまって、土に埋められた。
その時、ある疑問が浮かんだ。

「人は死んだら、どこへ行くんだろう?」

そこから眠れない日は続いた。
怖くて怖くてたまらなかった。
でもそれはいつしかやんだ。
友達と何気なく過ごす楽しい毎日や、テストに追われて忙しくする日常の中で、いつしか「死ぬ」ということを一切意識していない自分がいることに気づいた。

私たちはあまりにも「死」に鈍感すぎやしないだろうか?
明日に後悔を残して、床に就こうとしていないだろうか?

死後の世界なんて誰にもわからない。
明日の答えなんて誰も教えてくれない。
だからこそ、自分なりの答えが必要だ。

だから「死」「命」を考えることで、
自分も含めた沢山の人の人生を、心を、動かす授業がしたい。


人と人とがふれあい、人として生きる上で大切なことを分かち合う場を作ること。
誰もが人生を後悔なく生き抜けるような教育のカタチを研究し、実現すること。

この二つが私の当分の夢だ。

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