見出し画像

エゴから始まる国際協力。

自分とか人生とか、最近色んな人に語る機会が増えてきてから、自分の想いを伝えることに慣れてきて、楽しくなってきた。そして未来が楽しみになってきた。あとから「こんな自分もいたんだ」と振り返ってニヤニヤできるように、今日も記録を残す。

「尽くすならとことん尽くせ」だとか
「見返りを求めるな」だとか
様々な分野において
「自分の幸せを相手の幸せと考えるならば、相手を最優先に考えよ」
っていう主旨の言葉を聞くけれど、
やりたいことありきの「誰かのために」だと思うんだ。
最初は「自分のエゴを優先すべきではない」という言葉に動かされて、

事業にエゴがあっちゃいけないんだ。

と思いはじめ、必死に相手にとってのメリットを探す。
でも、「アートで世界中の人と繋がる」と言った時、「なんでスポーツとかじゃなくてアートなの?」と聞かれ、考えさせられた。
そういやなんでなんだろうか?
1番最初に思いついて
1番魅力的だと思って
なんだかんだで続いていて。
去年カンボジアに行ってから何故か美術館巡りが趣味に加わっていて。
それは友達の影響も少しはあるけれど、まずは自分自身がアートを好きだからなんだと気付かされた。

そのルーツを辿れば、昔から表現活動が大好きで、詩やら漫画やら小説やらを小学生の頃から書いていて、将来は小説家になりたいと思っていた。
小説家は売れないし安定していないと親から言われたけれど、お金なんてどうでもいいから将来はやりたいことをやりたい。縛られたくないという想いを一心に持っていた。その経験やら思想やらが形を変えて、今爆発しているのかもしれない。

それで改めてアートを使って活動を始めようとするけれど、競合の存在に気づく。当時の自分が思い描いていた理想の世界がまさに叶えられている団体に出会った。そこで、自分の存在意義について考えさせられることになる。
もう完成されている中でどうオリジナリティーを出せるだろうか?
何も思いつかなかった。

ああ、出る幕はないな。

そう思って、何もかもが嫌になった。
挫折を感じて、オリジナリティーを得るために人と違うことを片っ端からやるようになる。
でも、変わらなかった。
インドに行こうが砂漠で寝ようが、同じことをしたことがある人は何人もこの世界には存在する。
でも、そこで気づけた。

すべてにおいて二番煎じ、三番煎じ、百番煎じだってはびこる中、もともと誰もしたことがないスタートの仕方を探すこと自体ナンセンスだということに。

インドの砂漠で年を越した人は何人もいるけれど、インドの砂漠で年を越した後カンボジアに移住してビジネスをする人は、多分自分しかいない。
多分この例は極端すぎるかもしれないけれど、結局スタートが同じなのはあたりまえで、活動し、成長していく中で新たに気付いたことをもって自分らしさ、すなわちオリジナリティーが出てくるということに気付けた。
そこから変わる。
どこの団体が何をしようが関係ない。
1人でも、自分に価値を感じてくれる人が現れれば
そこに意味があるんだと考えるようになって、
競合という概念が自分の中からすっ飛ぶ。
子供たちに囲まれ、一緒にモノづくりをしてニコニコしてる自分が見たい。
その一心でまた、アートに戻った。

やりたいことをやらなかったら
そんな自分が嫌いになる。
嫌いになったら、自分にワクワクしなくなる。
ワクワクしなけりゃ夢も生まれない。
夢がなければ未来もない。
そんな人生は大嫌い。

自分のエゴがあっていい。
逆に、なきゃはじまらない。
だから俺は、自分の気持ちに正直になる。
やりたいことをやる。
会いたい人に会う。
伝えたい人に、伝えたいことを伝える。
その時でしかできないことだから。
いつの日か忘れてしまうから。
「やりたい」が「やりたかった」になる前に
今できることを最大限にやる。

どこまでやれるのか、俺は自分自身に期待したい。
何度失敗してもいいからやる。
だから今、俺は夢想家として未来にワクワクしてる。
悩んで悩んで悩み抜いたからこそ気づけた、
自分の心の中の声。
だから今度はそれに従って生きてみる。

「結局エゴじゃん」
そんな言葉に、
「1人でも価値を感じてくれる人が現れて、社会の中に価値を生み出せたと感じることができたなら、オールオッケーじゃない??」
という言葉で返したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?