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人生は「道」だと思っていた。けれど、凡人にとって人生は「川」だった。

 

 数年前まで、ぼくは自分の人生の舵を握っていると本気で信じていた。
自分が手にした成功も、身に降りかかった火の粉も全てどこかに原因があり、あらゆるものには因果が存在し、努力すれば成功し、不十分であるから失敗するのだと疑わなかった。それは、ぼくが絶望するほど暗い穴の底から、自らの力で這い上がり、成功を掴んだと勘違いしたことがきっかけだった。
 人生の舵を握っていると信じたぼくは、なにもかもを自分で背負い込めると傲慢になり、自分が過去の苦境を切り開くことができたのだから貴方にもできると啓蒙し、上手くいけば喜び、失敗すれば原因を究明し、原因であった自分の行動や他者を攻撃した。攻撃する度に何かがガリガリと削れる音を立てながら、いつしか本質的な意味での他者に対する感謝や尊敬の念はおろか、自己の努力を省みることも、積み重ねることも疎かにするようになった。今だからこそ言えることだが、当時の自分は周囲に対してあまりに尊大な態度だった。当時のぼくを知りつつも、いまだに交友関係を続けてくれる友人たちには感謝することしかできない。

 自分の力や偶然性に対する傲慢さは、どこかで必ず限界がくる。あるとき舵がぽっきりと折れて、そのまま船体は激流に飲み込まれてしまった。無惨にも残ったものは自分の身体と、削れきった心身に対する思いやりの心だった。それからは人生二度目の大鬱病時代を迎え、自分の愚かさを省みることにした。そして、ぼくが握っていたものは人生の舵などではなく、少なくともぼくの人生に、舵は存在していなかったことに気がついた。


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 プロフェッショナルという番組やインタビュー記事を通して、または上司や先輩たちの話を聞くことによって、成功者たちがどのようにその極致へと達したかを知る機会が、日常に跋扈している。

 成功者たちは過去を振り返って「~という(失敗)経験があったから今の自分がある。」というフレーズを好んで用いる。まるで自分の人生は現在まで一直線であったかのように、成功者の多くは自らの人生をそう評価する。また、彼らの中には人生を道に例える人もいる。過去を切り開いてこれたのだから、同様に未来も切り開けるはずだと言わんばかりに。

 もちろん本当に人生は一直線の道のようなものであり、遠回りをしたこと、しなくてもよかった失敗・後悔は微塵も無いという人もいるだろう。しかし少なくとも、凡人であったぼくの人生はそのようなものではなかった。

 これまでのぼくの人生を振り返ると、道という比喩が当てはまるような感覚はしない。道とは全く異なり、川の激流に飲まれないようにボートにしがみついていたかと思えば、凪いだ海に一人取り残されたようなこともあった。

 予想外のことが多い人生だった。今年の抱負を掲げても、その通りに進まないどころか全く違う場所にいることがほとんどだった。学びたいことは変わったし、掲げる理想も変化した。交友関係や所属、活動も1年経てばほとんど残っていない、ということはザラだった。他にも、回り道をしていたことや、今思えばやらなくてよかったような失敗をしたこともあった。後ろを振り返れば自分の足跡が残っているような感覚ではなく、流されるまま気が付いたらここにいた、という表現の方が個人的にしっくりくる。


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 それでも、過去の経験が今の自分に紐づき、因果関係を結ぶような人生に憧れを抱いたことはあったし、実際そう考えていた時期があった。しかし上述したように自分の人生が、一直線の道を進むように、または階段や山を登っていくような形で応えることはなかった。
 そのときに初めて、ぼくの人生がコントロール可能なものではないと気がついた。自分の人生を道に例えて切り開こうとする考え方は、自分の人生がコントロールできることが前提になっている。一方でぼくの場合は、川の激流に耐えてボートにしがみついていたように、1年後の自分が予想外な場所にいたことが常であったように、自分の人生はコントロール不能なものだった。

 ぼくたちのような凡人には、あまり大きな力はない。
人生や失敗を振り返って「あのときこうしていれば...」と考え、自身や他者、環境に対して感情を抱くことはよくある。同時に、その体験や失敗を避けることは不可能で誰も悪くなかった、ということもよくある。後から見直せば反省や後悔はできても、そのときは誰もが最善を尽くしていた、ということは目を凝らせば普通の光景だったりする。
 ぼく自身の人生を振り返ると、そのときの最善を尽くしても、自分の期待通りに事は運ばず、失敗することや当初考えていた場所と違う場所に流れ着いていることはよくあった。
 最近考えていることは、これはぼくに限った話ではなく、意外と当てはまる人が多いのではないかということだ。このような考えを友人に話すと、共感以上に賛同を得られることが多く、自分の人生をコントロールしたいと考えつつも、それができないことに少なからず苦しんでいることを話してくれる。もしかすると、このような捉え方が身の丈にあっていると感じる人が増えているのかもしれない。


 自分の人生を道ではなく川だと捉え、コントロール可能ではないという考え方に親和的な人が増えているのかもしれない。一方で、社会のメインストリームは明らかに、自分の過去から未来までを一直線に捉える道のような考え方である。実際、その捉え方の方が目標や原因を振り返る際に定量化しやすいため、マネジメントしやすいというのはあるだろう。(そもそも、そのような発想自体、人生がコントロール可能であるということなのだが、現場とマネジメント側で重視するものが違うし仕方ないのだけど...。)

 では、メインストリームに抗わずとも、人生を川のように捉えるぼくたちはどのように日々を生きればいいのだろうか。それは聞けば非常に単純なことで、川の流れに身を任せてしまえばいい。川の流れに身を任せる、つまり人生をコントロールすることを諦め、自分が息苦しくならない範囲で今日も明日も最善を尽くし続けることだ。
 これが本当に難しい。自分がどこに向かっているか分からなければ、日々の積み重ねが花を咲かせるかも不透明であることは大いに不安を抱かせる。しかし、そのときにこそ、ポジティブな意味でぼくたち凡人は力が無いことを思い出して欲しい。投げた賽の目をコントロールするような力さえ持っていないことを。ぼくたちは、賽の目を毎回6にできるような超能力も、賽の目を変えてしまえるような巨大送風機も持ち合わせていないことを。

 だからぼくたちは、忘れないように自分の目指すものを偶に思い出しながら、今できることを粛々とやっていくことしかできないのだ。人生をコントロールできない不安に襲われたとしても、それがメインストリームではないと分かっていても、賽の目をコントロールできないぼくたちには、今できることを粛々とやって積み重ねることしかできないのだ。たとえそこが賽の河原だったとしても。




【書きながら思い出していたもの】
「人生の偶然を楽しむということ」 , ハヤカワ五味 , note
"Sai no Kawara" , crystal-z
後知恵バイアス , Wikipedia
公正世界仮説 , Wikipedia

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