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新しい学問が生まれる瞬間を見ている感覚

風の噂で、生命科学クラスタで最近「相分離生物学」という言葉が流行っていると聞いた。学部の時の同期で現在大学で研究者をやっている友人曰く、最近のホットワードらしい。生命科学を卒業して10年、聞いたことのない単語自体に久しぶりに接した僕は、少し興味を抱いた。

早速wikipediaを見てみる。「相分離生物学」そのもののページはない。代わりに「相分離」が目につく。しかし開いてみると、

"相分離(そうぶんり、英: Phase separation)は、単一の均一混合物からの2つの区別できる相の生成である。最も一般的な種類の相分離は油と水のような2つの非混和性液体間のものである。"

ページ自体がわずか2行で終わっている。ふーむ、もしかしてそれほどのものでもないんじゃないか?だいたい、これが何だと言うのか。twitterでしばらく適当に検索してみると、この分野の第一人者らしい、筑波大学の白木先生にたどり着いた。どうやら本当に本人のアカウントのようだが、二郎系ラーメンと発泡酒のtweetしかしていない。大丈夫かこのおっさん。

土曜日の昼下がり、他にすることもなくぼーっと色々と調べていると、なんとなくその概要を理解してきた。ここで言う「相分離」とは、二種類の液体と液体の間で生じるその液質の分離のことである。例えばwikipediaにあるように、最も単純には水と油を想像してもらえば良い。両者は混ざり合わず、二層に分離される。これはアセトンのような有機溶媒と水も同様である。

ここで、今度は「水」の中に二種類の高分子化合物を加えてみる。例えば、デキストラン(DEX)とポリエチレングリコール(PEG)のような単純なもので良い。両者は同じ水の中にあって、水と油のように二層に分離される。この現象が今回注目したい「液液相分離」だ。ここでのポイントは、同じ「水」の中にありながらも、上下の層に分かれた上で、その二層の「性質が異なる」ということだ。具体的には、二層に分かれたうち、上層の液体ではDEXの濃度が高く、下層の液体ではPEGの濃度が高い状態であり、液体としては不均一になっている。溶液の温度・pH・イオン強度等で相分離の様相はダイナミックに変わってくる。

「相分離」の現象そのものは、なんてことはなく、高分子化学では古くから常識として知られた現象である。上述のPEGとDEXの水溶液中の分離なんて、中学生でも知っていておかしくない。

一方で、生物学の現象については、もちろん分子生物学が勃興してきて、それなりに理解は進んできているのだろうけれどそれでも、分子の物理化学的性質にまで及んで説明されているものなどは、まだほとんどないように見えているのが現実だ。

生物をこの「相分離」で見てみると、既知の現象に対しても全く異なる景色が見えてくる。

細胞を考えてみたい。細胞は、代謝・エネルギー産生・ストレス応答・成長・DNA複製と、その一室の中で多種多様な反応系を同時に両立させねばならない、巨大な工場のようなものである。それぞれに特異的な反応を間違えることなく効率的に行うために、一般的には、オルガネラのような脂質膜で閉じられた区画を用意し、それぞれの役割に特化させることでその要求を達成している。しかし一方で、一度でも顕微鏡で細胞を観察したことがある人であれば分かるように、細胞の中には、細胞質、核内に限らず、オルガネラ以外にも顕微鏡像としてなんとなく色が濃い・薄いのような「液体として性質が異なる」ように見える像は常に観察されてきた。中には、それらに特異的な役割があることが明らかになり、ストレス顆粒・Pボディ・カハール小体など、固有名詞を名付けられた構造物もある。それらは挙げれば枚挙に遑がない。こういった「膜のないオルガネラ」は、外部と物理的に区切るための脂質膜のような区画がないながらも、その構造としての独立性を維持し、特異的な役割に特化している。ときには、外部ストレスや細胞内部の需要に応じてダイナミックに形態が変化する様子さえ観察される。これらがまさに「液液相分離」を介した制御がなされているというわけだ。

例えば、解糖系やシグナル伝達におけるリン酸化カスケードなど、異なる酵素反応系がなぜ、大量の分子でごっちゃごちゃになっているハズの細胞内で混線せずに進むのかという疑問。これは確かに僕も10年前、生化学を学んだときから心の中でずっと抱いていた疑問だ。この疑問1つをとっても、「相分離」に着目すると、これまでとは全く異なる理解が得られる。

それだけではない。タンパク質の翻訳・分解・糖鎖修飾・シグナル伝達・オートファジー・細胞老化、そして生命の起源に至るまで。これまで学んできた生物学を、"相分離メガネ"を通じて全く異なる角度から改めて見直してみる新鮮さ。引き込まれる魅力がこの総説にはある。

なるほど、思いのほか面白くて、柄にもなく読みふけってしまった。

なんとなくですが、「新しい学問が生まれる瞬間」ってこういうものかなと興奮を覚えました。秋の夜長に(もう冬ですが)大変オススメの一冊です。

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