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釣り人語源考 『平家物語』の魚

世界史を彩る幾多の王朝の繚乱期では、たまに庶民の生活も充実して色々な芸術や文化も花開く。
古代ギリシア民や古代ローマ市民、近世ヨーロッパや中世イスラムの都市、古代から中世の中華帝国。
人々は花樹を育て演劇を愉しみ、そして歴史に少しばかりその痕跡を残し現代に伝えている。
我々日本人にも、庶民が園芸に勤しみ演劇鑑賞に熱狂した時代があった。江戸の元禄時代や文化文政の時代から始まり明治大正時代まで続いた真に日本が平和であった時である。


それまでは貴族や大名たちのたしなみであった趣味の世界である花の栽培であったが、徳川家康から始まる「異常な執着者」を皮切りに徐々に全国へと拡がっていったのだ。
超健康マニアである徳川家康が隠居したころ、元々本草ほんぞう書ダイスキの家康に中国の薬学事典の集大成『本草綱目』が林羅山から献上されると案の定のめり込み、薬草を研究しだして家臣がドン引き。

二代目の徳川秀忠は品のよいお坊ちゃんであり花の栽培にのめり込んで家臣がこれまたドン引き。「花癖かへきあり」という陰口が今に伝わっているレベルだ。(いやしかしこれレベルの趣味人に憧れる筆者もある。魚癖ありとか言われたいよね)

そして三代目の徳川家光となってくると「盆栽」への愛情と情熱と偏執とロマンティックが止まらない。余りにも盆栽を愛ですぎて国家経営がおぼつかなくなりそうで家臣がドン引きしたと講談で伝えられる。
その内容は「天下のご意見番でお馴染み”大久保彦左衛門”が、盆栽に現を抜かす天下の将軍家光の秘蔵の盆栽を、なんと叩き割ってこれを諫めてめでたしめでたし」…いや普通に打ち首ものだろ…創作だな…


さてさて将軍様がこの有様だと、やがて各地の大名にも園芸や盆栽ブームが沸き起こる。
お気に入りの文化人家臣を取り立てて、職人たちに庭木を仕立てさせ庭園や花壇を整備させ自分や客人は鑑賞。
とても手間がかかる盆栽は城下町に「盆栽町」を造って職人を住まわせた。(筆者が生まれ育った広島市の己斐こいは盆栽の町である)
城主がこんな感じで園芸にお熱ならば、家臣も無視するわけにはいかずお付き合いする羽目になるのが世の常。サラリーマン侍はツラいのだ。
しかしながらいやいやながらもやってみるとハマる侍も出てきて、やがて大ブームに。しかし貧乏侍が職人を雇う訳にはいかず自分で植物を育てる事になる。ここで園芸指南書が数多く出版されてベストセラー。解説書の出版が更に園芸初心者を呼び込んで、庶民にも園芸や盆栽が大ブームとなっていったのだ。


話は変わって庶民の演劇の集大成が「歌舞伎」であるといわれる。
歌舞伎はいわゆる「古典芸能」ではあるが、現代でもなお商業的に興行価値をもっている点でも世界唯一と言ってよい。
それまでの能や狂言、浄瑠璃、文楽、更に昔の神楽、舞楽のような舞台演劇の要素を継承し自由に発展させた、町民の生活に密着した特殊な形式と美学を持った世界で最も複雑な様相を持つ庶民演劇だ。(要するに説明不可能ってことで)
演目は、伝説や歴史を題材にしたり古典文学の有名なシーンを脚色した「時代物」。江戸時代の世相風俗を背景に町民の出来事を題材として義理人情や愛憎劇を描く「世話物」があり、人気の演目として「勧進帳」などがある。

現代人は「古文漢文なんて要らない」と主張して炎上するが、歌舞伎などの古典芸能を楽しむためには多少の教養と基礎知識がないと損である。劇の背景となる、当時の世相や考え方、登場人物の事情などを知っておかないと、なぜ悲劇的結末へと人々が導かれてしまうのかが分からず感動も薄い。
江戸時代の庶民も、当時識字率世界一とはいっても多少は読み書きができる程度で、『平家物語』は知ってても文学作品として読み込んでいるわけではない。
歌舞伎の過剰過激な演出であったりド派手な衣装だったりは、何度も何年も繰り返して上演して進化していった庶民が分かりやすく庶民にウケまくる庶民のための演出だった。弁慶は実際六法なんかで走りませんが、あれは弁慶の心情を表す演出なんですよハイ。

慌てて駆け出す弁慶の心情を「六法」で表現

『平家物語』の演目の中でとても人気があるのは『一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんき』だろう。
源氏・平家それぞれの登場人物の愛憎と背景を「本当はこうだった」と脚色して描き、合戦が始まり運命に翻弄される武将たちを追う悲劇だ。史実とは違う、脚本されたフィクションである。
荒々しい坂東武者の熊谷次郎直実くまがいじろうなおざねが、本当は戦いを知らぬ乙女のような顔立ちの16歳の貴公子であるが運命によって平家の総大将となってしまった平敦盛たいらのあつもりを、一騎討ちの末に首を獲ったと史実では伝えている。
しかし、実は我が息子を身代わりとして平家の鎧を着けさせ、熊谷自ら組み伏せて首を刎ねて、味方の源氏軍を欺いて敦盛を助けていた…熊谷は戦の無常を悟り息子を弔うため出家した。というあらすじだ。
琵琶法師の吟ずる鎌倉時代から世阿弥の能で演じられた「敦盛」の室町時代、そして歌舞伎で開花した江戸時代。
「熊谷直実と敦盛」というだけで、日本中の人々が悲壮なシーンを思い描く。そんな国民的ドラマなのだ。

敦盛を呼び止める直実

植物園芸界に超有名スターな「熊谷直実と平敦盛」がある。
クマガイソウはラン科の植物で北海道南部から九州にかけて分布する。低山の竹や杉の林の内部のような少し暗い林床を好み、晩春の頃にその名の由来である特徴的な花を咲かせる。
花弁は5枚が細く緑色で上部に展開し、袋状になって大きく膨らんだ唇弁が下に垂れ下がる。
唇弁の色は白で紫色の模様があり、一見すると生々しい印象を持つ。
この唇弁は巻き込むような袋構造によって外からは入りやすい中央の穴を持ち、ハチ類などの蜜を求める昆虫を騙して(蜜腺を持たないので)内部におびき寄せ、外に出る時は上の狭い隙間からしか出れない一方通行の通路が進化していて、通過する昆虫の体に花粉を付させるように葯が待ち構えている。

クマガイソウ

直実の出身地である武蔵国の熊谷は宿場町として江戸時代に発展していった。当然ながら当時の熊谷町郊外の林の中にもクマガイソウが自生していたはずだ。
おそらく江戸時代の大園芸ブームの時、熊谷町の園芸マニア下級侍の一人が、ランの袋状の唇弁を地元の英雄である直実の「母衣(ほろ)」に見立てて名付けたのだろう。なぜならクマガイソウには「ふぐりばな」や「ちょうちんばな」という別名が残っているからだ。「ふぐり」とはキンタマの事である…
この「クマガイソウ」の命名と同時期に、「アツモリソウ」が発見されたのではないだろうか。
熊谷と敦盛はセットでなければならない。武直な熊谷は地味な色彩で大柄であり、対する敦盛は華奢で煌びやかで、「平家を象徴する”赤”」を帯びていないとダメなのだ。

アツモリソウ

アツモリソウは、クマガイソウと同じラン科アツモリソウ属で、北海道や本州の冷涼な場所に生息する多年草の花だ。本州では高山の森林限界上の草原やまばらな林などに生え、北海道では低山でも見られる。
現在最も激しく盗掘されるランであり、破壊された自生地が数多く「特定国内希少野生動植物種」に指定されている。
花は背がく片が約3~4.5cmほど、唇弁の長さは2.5~4.5cmで非常に目立つ淡紅色であり、唇弁が10cmあるクマガイソウと比べ華麗な印象を受ける。


それでは魚の世界での「熊谷直実と平敦盛」を見てみよう。
「アツモリウオ」はカジカ亜目トクビレ科ツノシャチウオ属の大きく前方まで広がった第1背びれと胸びれが特徴の赤い魚だ。メスは吻の端に1本の赤いヒゲを持つ。
それに対し「クマガイウオ」は、身体や吻のヒゲや側線が黒く、背びれの第1棘が大きく高く伸び黒い斑点が目立つ全体的に薄茶色の近縁種となっている。

アツモリウオ
クマガイウオ

「近代魚類分類学の父」として知られる田中茂穂は、各地の呼び名を調べ一般性の高い地方名に基づき「標準和名」を提唱し、様々な標準和名を命名した。
クマガイウオは田中茂穂により「北海道有珠郡伊達村ではクマガイ又はオニギボ」と呼ばれていたことから「クマガエウヲ(熊谷魚)」と標準和名を提唱される。
そしておそらく、かなり後になってから『平家物語』を連想して「クマガイウオ」と「アツモリウオ」のセットを命名したのではないだろうか。
なぜならアツモリウオを始めは「アカシゲトク」という標準和名を田中茂穂は付けていたが、後にアツモリウオへ変更されているからだ。「シゲトク」はクマガイウオの地方名である。
アツモリウオへの変更は、田中茂穂の人柄や教養を表していて何とも痛快だ。
「クマガイ」や「シゲトク」はたまたま北海道の漁師たちが身近な人から名付けた愛称かもしれない。


更にトクビレ科には「サブロウ」と「シロウ」が存在する。
トクビレ科サブロウ属サブロウは青森県での呼び名で他には「オクジ(宮城県)「センダイオクジ(北海道虻田郡)」「ガンガラビ(新潟県)」「トントコトン(新潟県寺泊)」「トトキ(福島県茨城県)」「ハッカク(秋田県)」と、色々な地方名で呼ばれていたのだが、多分田中茂穂先生が遊び心でクマガイウオより小型であるので、熊谷次郎直実の弟であるから「三郎」を標準和名に提唱したと思われる。
同じくサブロウ属にサブロウとそっくりな日本海に分布する「シロウ」がいて、背びれの第1斑紋がサブロウと異なることで判別可能だそうだ。シロウは完全に田中茂穂先生の命名だろう。
また更に「シチロウウオ」も。
トクビレ科シチロウウオ属のこの魚、熊谷次郎直実の弟たちには7男は存在しないはずだが謎だwww
茂穂先生に直接聞いてみたい事案だ。

サブロウ

更に『平家物語』に登場する人物を名前に持つ魚たちを調べよう。
平清盛たいらのきよもり」は平家の棟梁であり平治の乱での勝利によって実権を握って太政大臣となり日本史上初の武家による政権を打ち立てた有名な有能武将だ。
「キヨモリ」の異名を持つのは「ミノカサゴ」である。猛毒を持つヒレを備えて敵は存在せず、海中ではほとんど泳ぎ回らずゆったりと波に揺られている派手すぎるその姿は、「平家にあらずんば人にあらず」という最高権力者清盛そのものでピッタリだ。

ミノカサゴ

平知盛たいらのとももり」は清盛の四男である。
清盛の子供の中で最も武将としての素質が高く、都落ちした後の屋島で平家軍の総大将となった。
源氏軍を次々と打ち破り勢い付くも、三種の神器の返還交渉による後白河法皇の休戦の命を守った知盛に対し、一の谷の奇襲を平気で行う源義経により敗北、屋島も無能な平宗盛により落とされ、壇ノ浦で卑怯にも船員を攻撃する義経に追い詰められた知盛は、鎧を二枚も着け更に碇を担ぎ上げ「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言って入水した。
平家物語のクライマックスシーンである。
知盛は現代だとまさにラオウ。猛将が晩節を汚さず自ら天に帰ったのだから超人気なのである。

碇を担ぎ、まさに自害せんとする知盛

この猛将「トモモリ」を異名に持つ魚は多数ある。
先ずは「ヒゲダイ」と「ヒゲソリダイ」。ヒゲダイ科ヒゲダイ属のあごひげが特徴の魚だ。
ヒゲダイは真っ黒な体色に大きなヒレを持っていて、その体高によってかなり寸詰まりに見える。
ヒゲソリダイは薄い黒黄色の体色に、黒く太い帯が斜めに2本あるが、しばしば不明瞭となりやすい模様を持つ。
この2種はあまり区別がされず、ヒゲダイの学名がヒゲソリダイに付けられ近年までヒゲダイの学名が無かったというエピソードがある。

ヒゲダイ
ヒゲソリダイ

「セトダイ」もヒゲダイの仲間。瀬戸内では「タモリ」と呼ばれて流通しているが、トモモリが訛ってタモリ(田守)になったのではと言われる。セトダイの近縁種の「シマセトダイ」もトモモリだ。

セトダイ(タモリ)

「コショウダイ」はイサキ科コショウダイ属で非常に多くの地方名を持つが、宮崎でトモモリと呼ばれていたらしい。”コショウ”というのも茂穂先生が「胡椒」とあてたが実際は「小姓」だったかもしれない。
ヒゲソリダイにとてもよく似た模様を持ち、武将に仕えた小姓の姿を連想したのかも。

コショウダイ

更にカワビシャ科の「カワビシャ」やカワビシャ科ツボダイ属の「ツボダイ」もトモモリだ。ヒレが大きく顔がねじれた様な独特の風貌を持つので名前は混同している地方が多い。
”ビシャ”と付く名前を持つ魚は多いが、多分「毘沙門」の事だろう。

カワビシャ

「ツバメウオ」は背ビレと尻ビレがとんでもなく伸びる魚で、漁港内で幼魚がヒラヒラ漂っているのを見かけたりする。
和歌山付近でトモモリと呼ばれるそうだが、長崎では「キョウゲンウオ」だそう。狂言の衣装からの命名だろう。

ツバメウオ

衣装からの連想で「サンバソウ(三番叟)」がイシダイの幼魚に付く。
「三番叟」は能楽から徐々に発展していった演目で、後世では庶民のための祝言の舞として各地で民俗舞踏となっている。

サンバソウ

「カゲキヨ」という魚名は「藤原景清ふじわらのかげきよ」という武将に由来する。
平家に従って源氏と戦い、共に都落ちしたため平姓で呼ばれることもあるが、伊勢藤原氏の出であるので本来は伊藤姓である。
猛将蛮勇で知られ「悪七兵衛あくしちびょうえ」の異名を誇る漢だ。
オッサン筆者ワイは「源平討魔伝」の主人公としてナツイ。
壇ノ浦の戦い後に自害したと伝わるが、頼朝を討ち果たさんとし、名刀「あざ丸」妖刀「モーハ」を携え、各地を転々と潜伏した景清は、全国各地に伝説を残すダークヒーローなのだ。

そういえば髪が赤い

「キントキダイ・チカメキントキ・ホウセキキントキ」などなど、キントキダイ属の魚たちは鮮やかな朱色や赤色を持つ。
南日本の沿岸で釣りをするとたまに掛かるウッカリお魚さんだが、ジグ単で狙って釣れるといわれ南の海のライトゲームの希望の星だ。

キントキダイ

深い場所に生息するキントキダイ科クルマダイ属の魚も同じく真っ赤な体色だ。

クルマダイ

標準和名の「キントキ」は元々歌舞伎の演目である『山姥物』に登場する怪童丸(金太郎のこと・後の坂田公時さかたきんとき)の衣装が真っ赤であることに因む。
「キントキニンジン」もそうだが、だいたい日本では朱色の動植物には「キントキ」と命名するのは普通であるな。
「カネヒラ」は坂田公時の息子の金平かねひらが活躍する人形浄瑠璃の演目『金平浄瑠璃きんぴらじょうるり」での、金平の人形の衣装が真っ赤であるのでそれに由来するとされる。料理の「きんぴら」も同じく強い武将である坂田金平と、歯応えのあるゴボウと辛い唐辛子を連想したもの。
しかしきんぴらごぼうを知ると、魚名がキンピラではなくカネヒラと命名されているのが少し納得できない。

もしかしたら「今井兼平いまいかねひら」という武将が由来かもしれない。源義仲の四天王であり乳兄弟でもある兼平が、『平家物語・木曾殿最期』の段で義仲を必死に𠮟咤激励し、いよいよ追いつめられると武士としての名誉を諭し、義仲が討ち死したと知ると「武士の手本としこれを見よ。日本一の剛の者の自害の仕方よ」と言って太刀を口にくわえて馬上から飛び降り、太刀に喉を貫かれ世を去った猛将だ。

そしてこのキントキダイの仲間たちは「カゲキヨ」の地方名を持つ。
歌舞伎の『平家物語』の演目で景清の衣装が朱色であったためだと思う。
しかしそれだけではなく、「主君のために散っていった猛将」こそが大事なんだろう。
その執念や怨念が無ければ、暗く冷たい海の底でなによりも真っ赤な魚に転生なんてできないのだから。


同じ朱色の魚ではあるが、大きく別グループであるキンメダイ目の魚たちの中にも「カゲキヨ」を異名に持つものがいる。
イットウダイ科イットウダイ属のイットウダイやアカマツカサ属のアカマツカサ、エビスダイ属のエビスダイは、「グソクダイ(具足鯛)」「ヨロイダイ(鎧鯛)」「カブト」「ヘイケ」「キントキ」「カネヒラ」など、武将に由来する名を持っている。ウロコがとんでもなく丈夫で鋭いためだ。
イットウダイも「一刀」に由来し、エラブタに後ろに伸びる鋭く長い固い棘を刀にたとえている。

イットウダイ

キンメダイ目のグループはウキブクロを持たないので、深海から釣り上げても他の魚と違ってすぐにまた潜っていく事が出来るため、執念深い武将の怨念の名前を冠しているのだろう。
同じように赤くてもアコウダイやメヌケなんかは眼や浮き袋・胃袋なんかがデロ~と飛び出て海面にプカプカしてて猛将に相応しくない。


さて先ほど登場したキントキダイ属の仲間には他に「ウマヌスット(馬盗人)」という異名を持つ。
この『馬盗人』の由来も武将ではないだろうか。
おそらく『今昔物語』の第25巻・12話の『馬盗人』が語源だろう。
登場する源頼信みなもとのよりのぶは藤原道長に仕えた平安時代中期の武将で、後の時代に武家が勢力を築く礎となった武勇の誉れ高い人物だ。
そして息子の頼義よりよしも父親譲りの猛将で弓の達人といえばこの人という。
頼信が大阪の河内の国司に着任した時の説話である。

ホウセキキントキ

「いまはむかし、頼信が良馬を東国から買った。すると息子の頼義が「俺に譲ってくれんかな~」と思いアポなしで河内に帰省。
父の頼信は息子が言う前に「ははん、馬をねだりに来おったな」とすぐに分かったので「もう日が暮れて馬がよく見えないから、一晩泊って明日に馬を見るがいい。気に入ったら持っていけ」といって息子と積もる話をした後、夜更けに父は床に就いたが、恩を感じた息子は「警備いたす」と装束のまま寝ていた。
すると雨が強く降る深夜になって馬盗人がうまやに忍び込んできた。家人の「大変だ!昨夜連れてきた馬が盗まれた!」という声に目覚めた父は何も言わず自分の馬に素早く跨り、雨で真っ暗な中どこに逃げたか分からない盗人の追跡を開始した。
頼信は「盗人は、東国より連れてきた馬を道中でたまたま見かけて盗もうとしたが我が家人の警護によって機会がなく我が邸宅まで着いてきたのだろう。そうなれば逃げる先は”関山”だ。(京都と近江の境である逢坂の関)」と思い馬を走らせる。
その時、息子の頼義は装束を着たままだったので、弓矢を手に取ってすぐに自分の馬に乗り、同じように推理して同じ方面へ追跡していた。
関山に到着した盗人は「ここまで来るともう大丈夫だ」と盗んだ馬から降りて休息していた。しかし父の「関山までくれば安心して休んでいるはず」という目論見通り。暗闇の中、息を殺して盗人の気配を読む。盗人が馬の手綱を引き、雨の水たまりを歩ませてバシャバシャと音を出す…
次の瞬間「頼義!あれを射て!」と叫んだとき、ヒュッと矢の音が鳴り「手応えあり!」と息子の声がした。
頼信は「我が息子ならばワシと同じ読みで、ここまで追いかけてきているに違いない。そして弓を構えてワシの合図を待っているはずだ」
頼義は「父上の事だから必ず関山で盗人を追跡しているに違いない。俺は合図があれば自慢の弓を射るのみ」と考えて矢をつがえて待っていたのだった・・・
武士とは何も申し合わせをせずとも、仲間を信頼して行動する。
彼らの心はまことに理解を越えている。武士の心映えとはまさにこのようなものだ。」
というあらすじだ。

『馬盗人』は今昔物語の中でも一番の名作と名高い。
貴族の時代が終わって、武士の時代となる転換点での説話であり、おそらく貴族であった著者が理解しがたい武士たちの世界を驚異の念と共に伝えている。


古の時代、何の楽しみも無かった漁村でも、漁師たちのヒーローは物語の中の武将たちであった。
書物から織りなす想像、錦絵や浮世絵で描かれる大鎧、村の祭りで催される舞台、町で見学する歌舞伎や浄瑠璃。
魚たちに武将の姿を重ねるその思いは、面白さと悲哀を同時に感じられて非常に興味深い。



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