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特性を知る=自分を知るという事



今年もあと数えれるほど。
そして今日は今年最後の新月でもあります。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか?

今年、やり残したことはありませんか?
これだけはやりたい!と思っていたことに
見て、聴いて、触れてみたでしょうか?

私も後でnoteに1年の振り返りと
来年の抱負を可視化しようと企んでおります。

さて、我が家の長男がホームスクーラーになってから早くも6ヶ月が経ちました。「不登校になったあの日」から半年、私なりに長男に向き合い、特性と障害を汲み取り、ときたま葛藤と想いに苛まれる日々を過ごしています。不登校になったからこそ良かったこと、親としての葛藤やこれからのことを少しづつ、記録として綴っていけたらいいなと思い立ち、こうしてnoteを今、開いています。




タイミングは不幸中の幸いだった

不登校になった日は、この日を待っていたとばかりに3年ほど勤めた介護施設を退職した次の日でした。朝起きてきてすぐに【⠀がっこう、いや。⠀】と、ボソっと言い放ったのが始まりです。梅雨時期ということもあり、気候や気圧に変動されやすく、毎年決まって6月は荒れやすいため「休む」という選択は私の中で想定内でした。

いいよ、休もう。


私の言葉に安堵した顔をして、その日は荒れることもなく穏やかに過ごしていました。姪っ子の誕生日会が重なったことも不幸中の幸いだったのかなと、今になって思っています。その日を境に、学校という場所に対する恐怖心が日に日に膨らんでいくのでしたーーー。


「恐怖心」の記憶は鮮明に

学校へ行けなくなった要因は、「不安と恐怖と困り事の積み重なり」だと思っています。本人の口から聞いたことでは無いので汲み取った上での推測にはなりますが、環境の変化・見通しが立たない物事が大の苦手な長男にとって就学は、人生の中で初めての大きな環境の変化になりました。自分が知らないお友達や先生、ものが多い場所、特性へのアプローチのミスコミュニケーション、本人が気付けないフラストレーションetc...たくさんの小さな不安の積み重ねが、1つのきっかけによって雪崩のように崩れていきました。今は「大勢の人の場の恐怖とトラウマ」に変わり、定期的にフラッシュバックをするようになりました。


二次障害と向き合い続ける日々


不登校になってからというもの、いろんな「二次障害」が生まれました。身まで達する爪噛み、2時間超の癇癪、他害、物破壊、自傷行為など。溜まったものを自分なりに吐き出すかのように荒れ狂う日々を過ごしていたように思います。その頃の記憶は正直、曖昧になりました。私自身も、とにかく「今」を過ごすことで精一杯だったように思います。外部との関わりを全てシャットアウトしてしまい、放デイへも出向くことができなくなり、建物の前で泣きじゃくって入ることも出来なくなりました。いわゆる、24時間軟禁状態です。今こうして、記憶を辿りながら文字を打っていても,「荒れ狂う」という言葉でしか表現できないほど、寄り添い見守り続けることしか出来なかった私も、苦しかったです。夜な夜な、未来への不安に飲み込まれて涙を流す夜もありました。ただ、その苦しみも今となっては長男にとっても私にとっても「経験」になっています。



二次障害の緩和の為に取り入れたこと



月日が経つにつれて、少しずつ少しずつ、心の回復が見られてきました。【⠀とにかく休む 】を、徹底的に取り入れてひたすら見守り続けました。今は、嫌だと主張するものとにかく回避し、好きなことで溢れる時間と環境を作り込みました。時間を沢山かけ、徐々に爪噛みが落ち着き、他害が落ち着き、ひとつずつクリアにしていくことができました。今は気候が変動しない限り、穏やかに過ごせるようになっています。相談員の方や今通っている療育現場の方々の力もお借りし、学校と話し合いの場(カンファレンス)を設けたり、定期的に相談させてもらったりしながら、親の立場としてできる、本人にとって今いちばん必要な支援と関わりを試行錯誤し続けています。そして、今という時間を一緒に大切に過ごすためにはどうしたらいいかを考える日々の連続です。今で母子同行であれば短時間の放デイに通うことができるようにまで回復してくれてほっと胸をなでおろしています。


この子のペースでスモールステップ



最近では自宅学習の実がつき始め、ひらがなの読み書きの成長を間近で感じれたりと、「不登校になったからこその共有できる成長の時間」を貰っているなと思えるようになりました。正直、本音を出すと、寄り添い汲み取り続ける日々が苦痛な日もあります。子供たちの全てを理解し、すべての嫌な出来事を取り除くことはできません。そして取り除くことが全てではないこと、いいことも悪いことも体感することで経験値になることもゆくゆくは知っていってほしい。母親としての願いです。そのためにも、「外部との関わり・人との関わり」をこの子のタイミングとペースを見極めて、親以外の人の温かさや心に触れる時間を取り入れることが今後の課題になっていくなと思います。外に出る練習を繰り返し積み重ねる。人と接する時間を短時間作るなど小さな成功体験の積み重ねを繰り返していくーーーー。ゆくゆくは母子分離ができることを目標に、「この子に合わせたスモールステップは何か?」を模索し続けることが私が今できる最善の寄り添いなんじゃないかと思う今日この頃です。



特性を知ることは「自分を知ること」



よく、特性は個性だという言葉を聞きます。個性だからと蔑ろにしてしまうと、捉える側によっては「押し付け」になる場合もあるのでは?と、最近考えるようになりました。個性と認識する為にはまず、「自分で自分のことをよく知ること」だと私は思います。何が苦手で何が嫌だと感じるのかーーー。心の声にきちんと耳を傾け、整理し、言語化できて初めて個性と呼べるものになるのでは、と思います。好きな物も好きな音も、苦手な場所も空間もーー。自分が感じるものを理解して、対処法を模索し、選択することに責任をもつこと。調和のとれた場を生むところまでがその人の「個性」になるのではないかな、と思います。そういった部分の問いを日々の何気ない日常の中から子供たちに私は、教えて貰っているのでしょう。


自分の特性を知る、見る、考える。

人と人との繋がりとは、「調和」であり、
個性を対等に認め合う場が
ナチュラルに生まれたのなら。


暖かい世界で包まれるのではないでしょうか?


ここまで読んでくださり、
ありがとうございました。



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