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「ありのまま」の真意


最近、自分自身を認める、癒すという
タイトルやメッセージに触れる機会が増えました。

「ととのう」
「ジャーナリング」
「瞑想」

人は「自分自身」と一言で言っても
言い表せきれない様々な「自分」を
感じながら日々生きているものです。

大人になるにつれて穢れていく感覚は
きっと「これ」なんじゃないでしょうかーー。

そんな私は、私が「大嫌い」でした。
取り繕うことも、黒を白だという縦社会も、
何もかもが嫌悪感でいっぱいの「社会」に
17歳から入り込んだ日から。


人の顔色を伺いながら
空気を読めることが「善」とされ
他者に認められるためだけに自分の形を
コロコロと変えていく。
変えていかなければいけないことに
嫌気で満たされてならなかった記憶ばかり。

いつの間にか
生きていくためだけに形を変えていたはずなのに
本当の自分を見失ってしまい
「本当の自分」を探すためにまた翻弄する。

そんな20代という歴史を刻んできました。

今振り返ればなんてちっぽけなことに
振り回されていたんだろうと思えるまでに
自分自身という核心がきちんと
見えるまでにはどうにかなれたのかなあ。と
こうしてしたためながら感じています。

前記事にも少し記しましたが

アップデートは人の価値観や思考、思想、想いに
触れて、共鳴されたもので生まれる

私はそう感じています。

この「ありのまま」の本質に関しても
言語化されたその人のその言葉だからこそ
自分のなかにストンと落ちる音を感じ、
感じたものをまた言葉として整理する。

つくづくそういうのが好きな人間なんだなあと
自分のことながら感じています。


改めてこの、「ありのまま」という言葉を
俯瞰して掘り下げようと思ったのは
シンプルに自分の「知覚」と「思考」の
ズレから生まれた嫌悪感から。

ありのままでいいよ。
自分らしく生きていこう。
あなたはあなたのままでいいんだよ。


沢山の肯定な言葉とポジティブな言葉に
触れると、心が満たされていく感覚を味わいます。
でも、その瞬間だけーー。

時間が経つとなんだか落ち着かなくて
また心の隅っこがザワザワし始める。
まるでまっくろくろすけが増えていくかのように。

そうしてそのザワザワに気がつくと、
またポジティブな言葉に触れるために翻弄する。
自分自身を肯定するためにー。

こうして自分自身を認めるため、
好きな言葉に触れてポジティブに
なるために行動しているのに
何故だかどんどん気持ちが沈んでいく。

そんなズレを日常的に感じるようになり
そのズレが大きくなればなるほど、
心にダメージが増えていきました。

一体どこからそのズレは生まれるのだろう?

同じことを繰り返しながらも時間をかけて
もがきながらそのズレの正体を模索し始め、
やっと「ストン」と落ちる音を感じることが
出来た答えが、

葛藤する自分もへこたれる自分も
ネガティブ思考でうずくまってしまうことが
あるのも自分だと認めること
他人を羨ましいと思う自分も認めること
こうなりたいと
欲求している自分も自分だと認めること


でした。

どこか自分の中でそれは「いけないこと」だと
認識をしてしまっていたことに気づいたのです。

ネガティブに感じることはいけないことだ
他人を羨ましく思うことはいけない事だ
こんな生活がしたいと
他人と比較することはいけない事だーー。


そのいけないこと、考えてしまうことを
認める作業から仕切り直しはじめます。
するとだんだんとズレの幅が狭くなっていくのを
感じれるようになりました。

自分自身の喜怒哀楽全ての感情を認めてから
ジャーナリングをするとズレがまた小さくなり
瞑想すると思考がスッキリするようになり
自然とネガティブ思考から遠ざかっていきます。

もしあなたがなりたい自分がいたとして。
そのなりたい自分との狭間にズレを
感じているのならーー。

一度自分の頭の中に次々と浮かぶ言葉たちを
拾い集めてみてください。

その中にありのままと称した
「何か」がそうさせているはずです。


それが「ありのまま」の極意なのかもしれません。



それでは、また。

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