第一話 中萩に降りる

 地図をひろげてみると、四国は北側の瀬戸内海に向かって、あんぐりと口を開いている。
 島々が密集する瀬戸内の海にあって、この一帯だけ、島影がごく少ない。瀬戸内で、もっとも広々とした海である。
 燧灘 ひうちなだという。
 この大きく開いた口の喉元あたりに新居浜(にいはま)の港があり、背後には四国アルプスの山塊が迫っている。
港から別子の山に向かって、ゆるゆるとざっと四、五キロ登ったところに、「中萩なかはぎ」の町名が見える。海抜は五〇メートルくらい。別子山系から滲み出るように拡がった扇状台地の真ん中に乗っかっている。
 十河信二は、明治十七年(一八八四)四月十四日、ここ愛媛県新居浜市中萩居で生まれている。当時は、「新居郡中村」。
 想像するに、そのあたりは穏やかに海風の吹きわたる、気候温暖の地であろう。十河信二少年もその滋味豊かな農村地帯で、のびやかに育ったにちがいない……。
 中萩を訪ねるまでは、漠然とそんなふうに思っていた。
 
 夕暮れの無人駅に降りた。
 JR予讃線よさんせんの中萩駅。
 伊予西条駅と新居浜駅の中間にある小駅で、制服姿の学生が、ぱらぱらと降車した。列車は二両の短かい編成だったが、ホームはずいぶんと長い。そのかたわらに、貨物ホームらしき遺構があって、半ば朽ち果てている。かつて、旅客、貨物ともにそこそこの賑わいをみせていたのであろうが、いまはすっかり寂れた。萩の花が人気のないホームを赤く染めている。
 この小駅が、十河信二生家の最寄り駅になる。
 といっても、生家は、すでに跡形もないらしい。資料によれば、いまでは「新居浜市立上部乳児保育園」という名の施設になっている。
地図で見ると、その保育園まで、ざっと四~五キロ。歩けばかなりかかりそうにみえる。陽の落ちきらないうちにその保育園だけでも見ておこうと思って、タクシーを拾った。
「ああ、こんぴら道の保育園ですわ」
 車は、国道から狭い旧道に入る。
 運転手氏によれば、この道は讃岐街道で、地元では「こんぴら道」と称する。隣県香川県琴平の金比羅様にお参りする人々で、古くから栄えた街道らしい。
 その保育園は、こんぴら道を三キロほど走ったところにあった。
 残念ながら、十河家は、跡形も残っていない。すでに園内に人影もなく、園庭の片隅に、ひっそりと「十河信二誕生の地」という石碑だけが立っている。
 すでに暮色迫り、取材は明日以降に……とあきらめて、新居浜のホテルに向かった。
 と、こんぴら道を走りだしてものの二、三〇〇メートルも走らないうちに、急に視界のグンッと開ける場所に出た。三角ベースの野球ができそうな原っぱがあり、山から海に向かって青々とした草地が一本の細い帯となって延び、朽ち果てた電信柱が続いている。
 廃線の跡じゃないのかな……。
 胸騒ぎがして、車を止めて戻ってもらった。
 「別子の鉱山鉄道やろ」
 運転手氏がつぶやく。住友別子銅山といえば、明治殖産興業の華であろう。その鉱山鉄道は、十河信二が少年の頃から走っていたのではあるまいか。もしそうであれば、七十歳過ぎてなお少年の情熱を失わず、頑固を押しに押し通してついに東海道新幹線を実現させた男は、その少年時代に、四国の僻村で黎明期の鉄道に出会っている。
 四国アルプスから駆け下る軽便鉱山鉄道が、信二少年を乗せてそのまま燧灘の宙に舞い上がり、やがて白地にブルーの夢の超特急となって天駆ける……ような連想ばかり思い浮かんで、その夜、しばし眠れなかった。
 
 別子鉱山鉄道は、別子の銅山と新居浜の港を結んで明治二十六年五月に開業している。
 十河信二、尋常小学校三年。九歳の春のことである。
 まず、扇状地を下る「下部鉄道」が開通し、続いて半年後の同年十二月に、山岳部を登る「上部鉄道」が運行を開始した。予讃線が西条まで延びる二十八年も前のことである。
 そもそも、十河信二が生まれた時代に、まだこの国に鉄道はほとんど走っていない。明治十五年度末の鉄道線路網図によれば、国有鉄道は全国にわずか三線のみ。新橋―横浜、浜大津―神戸、敦賀―長浜。これに民鉄の二線、手宮―札幌―幌内、陸中大橋―釜石が加わる。いずれもごく短距離であって、日本地図の中で見れば、鼻クソ程度に過ぎない。日本の鉄道建設が、民鉄主導のもとに本格的に始まるのは明治二〇年代に入ってからのことである。
 四国の松山は、その先鞭を切った。
 「停車場はすぐ知れた。切符も譯なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った」
 夏目漱石が小説『坊っちゃん』に書いた伊予鉄道(松山―三津ヶ浜)は、明治二十一年十月の開業である。日本で最初の軽便鉄道で、民鉄としても全国で二番目に古い(一番古いのは明治十八年創業の阪堺鉄道)。続いて翌年五月に丸亀―琴平間に讃岐鉄道が開通し、別子鉱山鉄道は、四国第三の鉄道、日本初の山岳軽便鉄道として誕生する。
 「陸蒸気おかじょうきや!」
 東予の人々は、仰天したであろう。
 当時、中萩周辺の主たる交通手段は、まだ大八車であった。人力車の数が増えてきて、ようやく駕籠かごかきが姿を消そうという時代に、突如蒸気機関車が走り出したのだから、大騒ぎである。遠方から弁当持参で見物にくる人々が後を絶たなかった。
 このとき東予の人々を驚かせた第一号機関車は「1–10」。二軸動輪の小型タンク車で、いまでも別子鉱山記念館の庭に展示されている。下部鉄道では、これに無蓋貨車が十四両連なり、最後尾に十人乗りの客車一両が連結された。小なりといえども、すべてドイツのクラウス社製。舶来のハイテクノロジーである。
 愛称は「豆汽車」。
 むろん、当時は汽車を動かせる東予人などいない。機関士から線路工夫に至るまで、すべてドイツ人専門家が担当した。ルイ・ガラントという機関士が、言葉の通じない日本人練習生の頭をスパナで殴りつけながら運転を教えたと伝えられる。
 ダイヤは、一日五往復。一編成およそ長さ五〇メートル。平均時速十五キロという鈍足で、シュッポッポーと行き来する。
 ……や~いガラント、ちゃんと走らせんかい!
 悪童たちの足でも、十分に追いかけることができたであろう。
 『別子鉱山鉄道略史』という資料によれば、下部鉄道開業のとき、こんぴら道と交差する「土橋つちはし駅」ができている。
 鉱山に暮らす人々の日常生活用品を積み込む駅である。
 朽ちた電信柱の続くあの原っぱは、旧土橋駅の跡地であった。
 下部鉄道の建設工事事務所が置かれたのも、この土橋である。車両、レール、信号機などおよそ鉄道建設に要する全資材がドイツから輸入されて、工期はまるまる二年に及んだ。
 いうまでもなく、鉄道開通と同時に、土橋一帯は沸き返った。
 米店、酒店、醤油店、豆腐店などの食料品店はもちろんのこと、旅館、料亭、医院、呉服店からブリキ屋、時計店、理髪店、馬車屋、人力車夫屋、はては芝居小屋から特設競輪場……まで、駅開設とともに街道沿いの地場産業はみるみる勃興する。
 「豆汽車」の建設工事が始まったとき、信二少年は、七歳。開業のとき九歳。以後、十三歳で西条中学に入学するまでの四年間に、毎日こんぴら道を歩き、ドイツ製の豆汽車を眺めつつ土橋駅の踏み切りを渡り、新居郡内の東新高等小学校まで通った。
 さらに十八歳で上京するまで、土橋駅周辺の変貌ぶりをつぶさに目のあたりにすることになる。
 鉄道は、どう作られるか。どう、動くか。人々を、世の中を、どう変えるか。
 十河少年は、故郷の村で”鉄道”にまるごと出会っている。

画:今尾恵介