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好きと固執は違うということ

今日の朝活書写。時間に余裕があって、落ち着ける場所だと書く文字も安定してる気がする。文字はココロの鏡(の時もある)。

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たまったダンボールをまとめ、玄関周り片付けの耳のお供は昨日の「東京ポッド許可局」オンラインと会場のハイブリット公演。今回の論がなんども聞けるって贅沢な気分。

ラジオ好きでラジオ漬けだった学生時代。ライフスタイルが変わるにつれてちょっと離れていた時期も経て今も耳からメディアが一番しっくり来る。今時のラジオはコンスタントに入るCMがあまり好きじゃない事、MC(ラジオではパーソナリティーと名乗るけれどこの呼び名はちょっと苦手)の高齢化が気になってたところで見つけたのがpodcastというアプリ。多種多様の番組があって一時期は耳が空いていれば気に入ったpodcast番組が流れているぐらいハマっていた。一つの番組を聴き始めるとそれを起点に枝葉も伸びて、多分普通に暮らしていただけでは知り合えなかった人たちと知り合う事が出来た。何事も踏み出してみないと何も始まらないのだと言う事を実感として知る事が出来る期間「だった」。

変わらない事も変わる事も、続ける事も止める事も、良いも悪いもない。ただその「コト」に固執しすぎると固執することが目的になってしまう。自分が楽しむため、心地よい時間を持つため、知識を得るためetcそんな目的でしてきた楽しい事が、好きでいる事が目的になった途端に「好きでいる自分」を維持するためにそこにエネルギーが流れてしまう。私がかなりエネルギッシュな人間でどんな事にもエネルギーを注げる大らかで器用だったら例え固執する事があっても好きを続ける事が出来るのかもしれない。でも私にはどうも難しいようだ。

エネルギー量が低い私は大きく広げた枝葉を今は、自分に見合った量に小さく畳む作業をしているようだ。そんな中で「東京ポッド許可局」が芯に残るのは自分の耳の歴史(笑)から見ると至極当然だし必然なのかもしれない。このおっちゃん3人の距離感とご機嫌な会話がとにかく心地いい。

って思うと。

何だかんだ考えても結局自分の心地よさ優先なんだな、私は。こうやってわがままに年を取っていくのだろう。自分で自分をご機嫌にさせる方法を見つけた時のワクワク感を大事にしていこう。